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天皇激怒「宮中震撼させた女性問題」家康の対応力 猪熊教利による情けない事案、どう処理した?

東洋経済オンライン / 2023年11月26日 9時0分

駿府城(写真: taktak99 / PIXTA)

NHK大河ドラマ「どうする家康」の放送で注目を集める「徳川家康」。長きにわたる戦乱の世に終止符を打って江戸幕府を開いた家康が、いかにして「天下人」までのぼりつめたのか。また、どのようにして盤石な政治体制を築いたのか。家康を取り巻く重要人物たちとの関係性をひもときながら「人間・徳川家康」に迫る連載『なぜ天下人になれた?「人間・徳川家康」の実像』(毎週日曜日配信)の第49回は、宮中を震撼させた不祥事に対する家康の処理能力について解説する。

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会長の家康と社長の秀忠でタッグを組んだ

慶長8(1603)年、征夷大将軍となり、江戸幕府を開いた徳川家康だったが、その2年後には、息子の秀忠に将軍の座を譲ってしまう。

【写真】宮中での情けない事案に家康はどう対応したか?写真は家康公銅像

体調に問題があったわけではない。なにしろ、家康はつねに健康に気を配っており、粗食を心がけたばかりか、健康のため自ら薬の調合まで行っている。「健康オタク」といってもよい。

家康は自身が健康なうちに将軍を息子に引き継ぐことで、存分にフォローアップしようと考えていたらしい。

かつて甲斐の武田信玄が、自らの死期を悟ってからようやく勝頼に本格的に政権を譲渡し、バタバタのなか、結果的には滅亡へと向かった。そんな武田家の末路を、見ていたからかもしれない。家康は早々と息子に将軍職を譲ると、自身は駿府に退き、大御所となっている。

いわゆる「二元政治」であり、政治の実務は秀忠が行ったものの、政治の実権は依然として、家康が掌握することとなった。現代の会社経営でいえば、創業者が息子に社長を譲って、自らは会長として権勢を振るうという関係によく似ている。

家康と秀忠は、支配エリアの分担も行っている。会長の家康はいわば西日本の担当で東海・北陸から西の諸国を、社長の秀忠は東日本の担当として関東・奥羽の諸国を支配した。

とはいえ、軍事指揮権や外交権は、大御所の家康が握っている。さらに、秀忠のもとには、家康の信頼が厚い本多正信が送り込まれており、家康が駿府からしっかり秀忠を見張っていた。人材も明らかに家康の駿府城のほうに集められている。

新リーダーを立てた家康の配慮

そうして若社長を監視しながらも、家康なりに配慮もしていたようだ。越後の堀忠俊が父の堀秀治から領地を受け継ぐにあたって、家康はこんな意味の御内書を与えた。

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