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「土佐日記」非日常的な不思議さに隠れた真実 「言葉のルールを破りまくった」紀貫之の目的

東洋経済オンライン / 2023年12月3日 8時0分

二十七日の記事には、悲嘆にくれる前国司の姿が早くも現れる。

廿七日、大津より浦戸をさして漕ぎ出づ。かくあるうちに京にて生れたりし女子こゝにて俄にうせにしかば、この頃の出立いそぎを見れど何事もえいはず。京へ歸るに女子のなきのみぞ悲しび戀ふる。

【イザ流圧倒的意訳】
二十七日。大津から浦戸を目指す。このような一行のなかに、京都で生まれた女の子が赴任先である土佐で急死してしまったので、この頃の出発の準備の様子を見ても、何も言わない。都に帰るのに、女の子がいないと思うと、悲しみが込み上げてくる。

親の先に死んでしまう子供。それこそ、社会的な上下関係の乱れや感覚の欠如より何倍も不自然なことだ。だからなのだろうか、そんなつらい経験を強いられた紀貫之は、不自然で理不尽なことばかりを眼で追い続けているのだ。

酔っ払ってしまう子供たち、上下関係を超越した船旅、左も右もわからない非日常的な空間……。何度も強調される「おかしさ」は、将来の夢を奪われた娘の悲劇を増幅するという効果をもたらす。

非日常的な理不尽さへのこだわりが物語ること

紀貫之がいつ『土佐日記』を書いたか、はっきりとはわからないが、作者がすでに60代に突入していたのではないかとも言われている。平安時代の平均寿命からしてかなりの高齢者だし、そんな年齢の人にははたして幼い娘が本当にいたのだろうか、という疑問が残る。

その謎を解明できる人がおそらくいないものの、『土佐日記』に漂う哀感、そして随所に感じられる非日常的な理不尽さへのこだわりがその真実を物語っている、と私は思う。

前国司と一緒に都に戻る妻も、旅の途中で何度も亡くなった娘を思い出し、悲しさに耐えきれず泣き崩れる。深読みだろうか、彼女を支える女房たちに紛れて、女のふりをしている作者本人の影が見えそうな錯覚に陥る。

平安朝はインクルーシブな社会では決してなかったけれど、「女になって」、女性の立場に立って考えるというのは、紀貫之ならではの心遣いだったのかもしれない。言葉は社会を反映するものであり、ときには社会を変えるものでもある。その大切さを、紀貫之先生に改めて教えられたような気がした。

イザベラ・ディオニシオ:翻訳家

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