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高橋源一郎「歎異抄」の生きる知恵を今のことばに 「歎異抄」は親鸞の「君たちはどう生きるか」だ

東洋経済オンライン / 2023年12月29日 20時0分

『歎異抄』は、弟子の唯円が師の親鸞が亡くなって遥か後、師のことばを思い出しながら書いた本です。そこに書かれた親鸞のことばを読むと、どれもが、我々ふつうの庶民たちが抱えている、曖昧で答えにくい問いへの回答になっているような気がします。そんなことばは、わたしも他では読んだことがありません。一冊まるごと読めば、読み終わった後で、なにか大きなことを教えられた、そう感じることができる本なのだと思います。

親鸞は偉大な僧侶、というか仏教者だと思われています。歴史の本や教科書にはそう書かれているかもしれません。でも、実際はちがうとわたしは思っています。親鸞は、若い頃、宗派の争いに巻きこまれました。そして、反対する宗派の迫害にあって、流刑になります。仲間の中には処刑された人もいました。なんだか、いまと変わりありませんね。

その後、親鸞は変わりました。「非僧非俗」を称え、自分は僧侶でもなく(僧侶という形式など信仰に関係ないから)一般人でもない(それでも信仰はいちばん大切にしているから)といったのです。そして親鸞は、僧侶なんて姿形で威張っても意味がないからと結婚し、子どもをつくり、家庭生活を営みました。

『歎異抄』の中にも書いてありますが、宗教的な儀式もいらない、お布施もいらない、といいました。当時の一般庶民は字も読めず書けない人が大半だったので、お経もいらない、そんなものは自分で読むだけでいい、といいました。

結局、親鸞の浄土真宗では「南無阿弥陀仏」という念仏(ネンブツ)を唱えるだけで、あとはなにもしなくても、死んだ後は浄土(ジョウド)へ行けるといったのです。当時の僧侶たちは困ったことでしょう。自分たちが僧侶としてやっていることが、ぜんぶいらないことだといったのですから。

人として生まれた以上、最後まで迷う

そんな親鸞がやったのは、一般庶民の悩みを聞いて答えることだったのですが、わたしが好きなのは、次の問答です。

あるとき弟子の唯円は、彼らの信仰の根本である「念仏」を唱えても実は喜びを感じないのですといいました。自分には信仰心がないんじゃないかと告白したのです。すると、意外なことに、親鸞は「おれも同じだ」と答えました。こんなふうにです。

「いくらネンブツをとなえても、うれしくならないのは、信じられないからだ。なぜ信じられないのか。迷うこころがあるからだ。この世に執着しているからだ。おれたちが生きているからだ。おれたちがこの世界に生きて、欲望にまみれているからだ。おれたちがゴクラクより地上にしばられているからだ。ユイエン、だからこそ、おれたちはジョウドへ行けるんじゃないのか?」

人として生まれた以上、最後まで迷うのだ。これが親鸞がたどり着いた結論でした。それこそが生きている証拠であり、意味なのだと。親鸞はそう考えたのです。もちろん、具体的な悩みは具体的に解決するしかありません。けれども、人が人として生きる限り生まれる悩みは解決しません。解決しないからこそ人である意味があるのです。

いや、親鸞はもっとずっとうまく説明してくれています。ぜひ『歎異抄』を読んで、直接、親鸞本人にお訊ねになってください。きっとあなたに直接響くなにかを教えてくれるはずです。

高橋 源一郎:作家

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