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【ルポ】1歳の娘は余震に怯え、声も上げなかった 能登半島地震、記者が体験した避難のリアル

東洋経済オンライン / 2024年1月5日 19時30分

1月2日、ホテルで余震に遭い、娘の上に覆いかぶさり机の下へ隠れる記者(写真:記者提供)

1月1日、記者は5年ぶりに帰省した石川県七尾市の祖父宅で大地震に遭遇した。妻と1歳9カ月の娘を連れてJR七尾駅近くのビジネスホテルへ避難。断続的な余震に襲われながら3人で眠れぬ夜を明かした。地震当日の様子はコチラ

娘が浅い眠りから覚め、もぞもぞと動き出したのは、1月2日午前8時ごろだった。東京の自宅にいる時は起きたらすぐに「パパ、こっちー」と台所まで記者の手を引き、朝ご飯を要求してくる食いしん坊。だが、この日はうつ伏せのまま自分の左手親指をしゃぶるだけで、決してベッドを降りようとしなかった。

【写真】七尾市内の渋滞の様子(1月2日撮影)

「1階の朝食会場に食べ物がないか見てくる」。起床した妻はそう言って、ホテルの部屋着の上からジャンパーを羽織った。宿泊していた部屋は6階で、エレベーターは止まっている。屋外の非常階段を下りて行かねばならない。

妻が乾いて白くなった土砂がこびりついたブーツを履き、ドアノブに手をかけると、娘が「やーやー」とぐずり始めた。「大丈夫だよ。ママはすぐに戻ってくるよ」。記者が抱き上げ、そう語りかけても、娘は不安そうな表情のまま、妻が出て行ったドアを凝視していた。

記者と妻がそばにいないとひどく怯えた

娘はその後も、記者と妻の両方がそばにいないとひどく怯えた。水を流せるトイレがホテル1階にしかなく、交替で用を足しに行く間、残ったほうは泣き叫ぶ娘を必死であやさなければならなかった。

10分ほどして妻は戻ってきたが、手ぶらだった。「パンがあったらしいけど、もうなくなったんだって」。もっと早く行けばよかった、と悔やむ妻に娘は抱っこをせがみ、しばらく離れようとしなかった。

主食になる手持ちの食料は、前日の夜にコンビニで確保したカップめん類のみ。一方、蛇口をひねっても水は出ず、飲料水はホテルのチェックイン時にスタッフがくれた500ミリリットルのペットボトル2本しかない。ここは温存することにして、娘には祖父宅から持ってきたボーロやせんべいを与えた。

どれも大好物のはずなのに、娘は一口かじっただけで「いや」と顔をそむける。その食べ残しを妻が口にした。

記者に空腹感はなかったが、べたついた顔を洗いたくて仕方なかった。娘のお尻ふきを1枚拝借し、額に浮いた皮脂をぬぐう。そこでお尻ふきの容器がしぼんでいることに気付く。中にはあと数枚しか残っていなかった。

これはまずいと、外に物資を探しに出ることを決めた。迎えに来た父の軽自動車に妻子と乗り込み、七尾港近くのドラッグストアへ。ひしゃげた住宅やひび割れた道路の前に置かれた三角コーン、自衛隊の車両を窓越しに眺めていると、地元では見たこともないような渋滞に巻き込まれた。記者と妻子は途中で車を降りて徒歩で店へ向かった。

「臨時休業」の手書きの張り紙

やっと着いたが、入り口には「臨時休業」と手書きの張り紙。近隣のスーパーやコンビニもやっていない。あきらめて被災した祖父宅の様子を見に行く。80代の祖父母は厚手のダウンを着込み、物や何かの破片が散乱する部屋の片づけに精を出していた。

65インチのテレビが倒れ、祖父がゴルフコンペで集めた金属製のトロフィーや優勝カップがいくつも落ちてきた場所の傍らに、幼児用の布団が折りたたんで置いてあった。地震発生の5分ほど前まで、娘はそこで昼寝していたのだ。もし起きるのが少し遅かったら、体重約10キロの小さな体では、ひとたまりもなかっただろう。

すべてが紙一重だった。この日の朝、テレビのニュースでは、特に被害が大きかった石川県輪島市を上空から撮影した映像を流していた。火災が起きた影響で、集落一帯が空襲を受けた後のような焼け野原となっていた。祖父宅も古い木造家屋が立ち並ぶ地域にある。もし1軒でもどこかが燃えていたら、同じような惨状になっていただろう。

自分や家族が無事だったのは、ただの偶然でしかない。そう考えると無性に恐ろしくなってきて、思考を振り切るために体を動かしたくなった。だが、娘を抱いていたので、記者は何も作業できない。代わりに妻が剥がれて砕けた玄関の内壁をホウキで掃除した。

祖母は濡れティッシュを棚から2パック取り出し、妻に手渡してくれた。避難所へ逃げたほうが良いのではないか、と記者は祖父に勧めた。返答は「いつでも逃げられるように車で寝るから大丈夫や」。能登の冬は厳しい。夜間の気温は氷点下になる。寒さとエコノミークラス症候群には気を付けろ、と何度も念押しするしか、記者にはできなかった。

次に祖父宅から徒歩10分ほどの実家を訪れた。東京の自宅から連れてきていた飼い猫の状態を確認するためだ。ロシアンブルーのメスで2歳。トイレや簡易ケージと共に置いていた部屋に入り、「おそばー、どこだー?」と名前を呼んだ。

普段なら「にゃーん」と甘えた声を出しながら、すぐにすり寄ってくるのに、何の反応もない。捜索すると、タンスと壁の隙間に隠れて身を縮こまらせていた。抱き上げると、瞳孔を開いたまま、ガタガタと震え出した。

「怖かったな、ごめんな」。声をかけながら頭をなでると、震えは一層強まった。かわいそうだが、避難先のホテルへ連れて行くことは叶わない。エサ皿にキャットフードをたんまりと盛り、好物の「CIAO ちゅ~る」や猫用スナックを出したうえで、後ろ髪を引かれながら、部屋のドアを閉めた。

数えきれないぐらいの余震

ホテルに戻ると昼時を過ぎていたので、インスタントのうどんを作った。スプーンで麺をすくって娘の口元へ持っていく。娘はプイッとそっぽを向いてしまった。結局、この時もほとんど何も食べなかった。

この日も数えきれないぐらいの余震があった。グラグラと部屋が揺れるたびに、記者か妻が娘の体を机の下に隠したり、上に覆いかぶさったりして守った。娘は泣き叫ぶどころか、声すら一つも上げない。ただ体を硬直させ、じっと耐えるだけだった。

「これからどうするのか、あなたが決めて」。妻は記者にそう言ってきた。当初の予定ではこの日の午前中に東京へ向けて電車に乗るはずだった。運休となっていた北陸新幹線は午後3時半ごろに復旧。ただ、JR七尾線は止まったままで、金沢駅までの列車はなかった。

記者にとって、第一優先は娘の命だった。翌朝にホテルを出て帰京することを決めた。父の車はガソリンが少なくなっていたため、まだ残量が多かった祖父の車を借り、地元を走り慣れている父に運転を頼んだ。友人たちと金沢市在住の叔父に電話やLINEで道路や渋滞の状況を聞きまわり、より安全そうな走行ルートを探った。

やり取りした友人の1人は、母親が七尾市の公立病院で看護師として働いていた。「地震の後に出勤して一度も帰ってきていない」とその友人は教えてくれた。きっと修羅場の中、人命を救うために職責を全うしているのだろう。

一方、私の職業は記者だ。苦しんでいる人々がいたら、その窮状を伝えることが仕事のはずだ。現場に出て取材するべきなのに、自分たち家族だけ逃げ出してよいのだろうか。いやそれ以前に、人として、年老いた祖父母を危険な場所に置き去りにするべきなのだろうか。

悩みながら、夜を迎えた。記者は飼い猫の様子を見に一度実家へ戻った。その際に台所で「サトウのご飯」2パックを見つけた。父の了承を得てバッグにしまい、ホテルへと帰った。

レンジで温めた米をテーブルに置くと、被災後に初めて娘がご飯を欲しがった。記者がフーフーと息を吹きかけて冷まし、少量を割り箸で娘の口へ運ぶと、ついに食べた。妻も久しぶりに笑顔を見せた。「よかったね、よかったね」と2人で言い合いながら、もう一口を食べさせた。

何度か咀嚼したのち、娘は突然、ゲホッとえずいて吐いてしまった。空腹すぎて、胃が食べ物を受け付けなかったのかもしれない。服やご飯は吐瀉物にまみれている。慌てて祖母にもらったウェットティッシュであたりを拭くが、娘はショックで泣き出してしまい、それから何も口にしなかった。

娘は両目を見開き、全身を強張らせた

記者と妻は残っていた水でお湯を沸かし、カップ麺を作って分け合った。水量が足りず、麺は固くてスープはしょっぱい。娘を真ん中にして川の字になり、もうベッドで休むことにした。少しでも離れるとパチッと目を開いて泣き叫ぶので、記者は娘を抱きしめたまま横になった。娘の髪からは汗や土、吐瀉物が混ざったような臭いが漂っていた。

なかなか眠れずにうとうとしていると、午前2時20分ごろ、またスマートフォンが不快な猛々しい音を鳴らせた。緊急地震速報だ。前震の2日後に本震が発生して大きな被害をもたらした、2016年の熊本地震が脳裏をかすめた。

震源地から少し離れていたのか、七尾市はそんなに揺れなかった。ただ、娘の心を折るには十分な威力だった。娘は両目をカッと見開き、息をするのも忘れて全身を強張らせていた。もう東京へ帰るしかない、と記者は吹っ切れた。

朝になり、ホテルをチェックアウトした。ロビーでは地元の病院の名前が入った防災服を着た男性が数人いた。医療従事者だろう。心の中で「すみません、すみません」と何度も頭を下げながら、車に乗り込み、実家の猫を回収して出発した。

雨がパラパラと降っていた。ニュースではしきりに土砂災害に注意するよう呼び掛けている。金沢駅までの道中は「走行中に地震や津波、土砂崩れに遭ったらどうしよう」と気が気ではなかった。

それらは幸いにも杞憂に終わった。途中、子連れで避難所にいるという女性からの楽曲リクエストがラジオで取り上げられ、アンパンマンのマーチが車内に響いた。娘よりもっと酷い状況の子供たちはまだ大勢、被災地に残されている。

約3時間かけて金沢駅へ到着し、すし詰め状態だった東京行きの新幹線へ飛び乗った。

自宅に着き、洗面所のレバーを押すと、冷水が勢いよく飛び出す。1回、2回、3回と両手ですくって何度も顔を洗った。妻子と3人で風呂に入り、清潔なシーツをかけたベッドで横になる。普段はリビングで1匹で眠ることを好む飼い猫も、記者の掛布団の中へ潜り込んできて体を丸めた。

娘が寝静まった後、妻がポロポロと泣き始めた。「ミオが無事でよかった。不安だった」。どうしたの、と記者が尋ねると妻はそう答えた。記者が思わず抱き寄せた娘からは、子供用シャンプーのほのかに甘い香りがした。罪悪感と安堵が入り混じりながら、記者の意識も睡魔に蝕まれていった。

石川 陽一:東洋経済 記者

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