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聡明な紫式部に父が口にした「忘れられない一言」 世界最古の長編物語を書いた紫式部とその家族

東洋経済オンライン / 2024年1月7日 7時30分

寛弘7(1010)年正月2日のことだ。藤原道長の邸宅で宴が開催されることになった。為時には音楽の才もあったため、道長は管弦のために、為時を招いたようだ。

ところが、宴が終わると、為時はさっさと席を立ち、帰ってしまった。その姿を見た道長は紫式部に「お前のお父さんはひねくれている」といってからんだのだという。

一条天皇の「文士十傑」に数えられるほどの優秀さを持ちながらも、10年も官職を得られず、出世できなかったのは、そんな為時の性格と無関係ではないだろう。

紫式部もまた、非社交的で、内向的なところがあった。文学的な素養だけではなく、性格の面でも、式部は父から影響を受けていたのかもしれない。

母は3人の子を残して亡くなった

紫式部の本名がよくわかっていないのは前述したとおりだが、それは何も特別なことではなく、当時は女性の名前を記録として残さなかった。

そのため、紫式部を生んだ母親のことも「藤原為信の女」、つまり、藤原為信の娘としかわかっていない。

為時が藤原為信の娘と結婚すると、翌年に長女が生まれて、その後は次女、長男の順で生まれている。この次女が紫式部だ。

だが、3人の子を産んだことが、体に障ったらしい。式部は数え年にして3~4歳のときに、母を亡くすことになった。妻に先立たれた為時は、別の女性と結婚することになるが、自宅に招き入れることはなかったという。

式部は姉と弟とともに母なき家庭で、漢学者の父、乳母、女房らに育てられることになる。

母なき家庭に育った式部には、忘れられない父の一言があった。

家で書物を読んでいたときのことだ。弟の惟規が漢籍をなかなか覚えられないなかで、 式部はしっかり暗誦していた。

為時が口にした意外な言葉

漢学者の父ならば、そんな娘をさぞ褒めたかと思いきや、為時が口にした言葉は、意外なものだった。

「つくづく残念だ。この子が男子でないとは、なんと私は不運なんだろう……」(惜しう。男子にて持たらぬこそ幸ひなかりけれ)

まだ漢学が女子の通常教育ではなかった時代だ。為時のような考え方は珍しくなかった。

言われた式部のほうも「女性は漢学の知識などひけらかしてはならない」と、戒めるようになった。一条天皇の中宮彰子のもとに出仕したときには、こんな涙ぐましい努力までしている。
 
「私は『一』という字の横棒すら引いておりません」

「一」の漢字すらも書けないフリをした紫式部。自身が才女であることをなんとか隠そうとするなかで、式部の心を強く揺さぶったのが、清少納言の『枕草子』だ。

その遠慮がなく言いたい放題の筆致に対して、式部は「利口ぶって漢字を書き散らしている」と酷評。面識のない清少納言の振る舞いを、辛辣に批判した。

そうして清少納言へのライバル心を燃やしながら、紫式部は『源氏物語』の執筆になおいっそう精力的に取り組むことになったのである。

【参考文献】
山本利達校注『新潮日本古典集成〈新装版〉 紫式部日記 紫式部集』(新潮社)
倉本一宏編『現代語訳 小右記』(吉川弘文館)
今井源衛『紫式部』(吉川弘文館)
倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社現代新書)
真山知幸『偉人名言迷言事典』(笠間書院)

真山 知幸:著述家

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