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内陸県に海を思わせる「八潮市」地名のナゾを追う 住民が守った日本唯一の地名"垳"は何と読む?

東洋経済オンライン / 2024年2月19日 11時50分

つくばエクスプレス開業まで長らく鉄道空白地帯だった八潮市は、隣接する自治体の鉄道沿線から拡大してきた住宅地の外縁にあたる。市西部は草加市と隣接し、東武スカイツリーラインの草加駅方面へ1時間に3往復設定されている路線バスの系統が複数ある。

また、市南部は東京都足立区や東京都葛飾区と隣接し、常磐線の綾瀬駅、亀有駅、金町駅へ向かうバス系統が複数通っている。このように周辺の鉄道駅から広がってきた住宅地化により、人口を伸ばしてきた。また市北部には1971年に八潮団地が建設されており、こちらも人口増加に貢献している。

そして、昭和の大合併前には「八幡村」と呼ばれていた市西部のエリアには、高度経済成長期から発展した一軒家を主体とした郊外らしい住宅地の風景を見ることができる。

また、八潮駅周辺や市の西部といった住宅地の広がるエリアと趣が異なるのが、市の北部だ。昭和の大合併まで「八條村」と呼ばれたエリアで、地名は8世紀に定められた土地区画制度「条里制」からきているとされる。そのためか、市の東を流れる中川に近いエリアには農村地帯の面影が残っている。

市の北西部には工場や倉庫が多い。八潮市内で工業化は大正時代に萌芽が見られたが、本格化したのは第二次世界大戦後のことだ。1959年に八潮村(当時)が工場誘致条例を制定し、市の北西部や市の西部に工場が立地した。その結果、工場労働者も多く移り住んだ。

つまり、東京の住宅地の広がりと工場の立地の両輪で八潮市は大きく人口を伸ばしてきたのである。

人口を伸ばした後も、1985年に首都高速6号三郷線と国道298号が、1992年には東京外環自動車道が市内を通るようになり、自動車交通網が強化されたことで八潮の工業化はさらに発展し、首都高速道路の周辺には小さな工場や倉庫が多く立地する、現在の風景が形作られていった。

八潮の地名と工業化を生み出した「川」

八潮で工業化が進展した要因としては、東京都心から比較的近距離にもかかわらず、地価が安かったことが挙げられる。そして、地価が安かったのは、開発が周辺地域に比べてあまり進展していなかったためだ。

八潮の発展をそれまで阻害していたものとしては、鉄道沿線から離れていることもあるが、ひとつ大きな要因として、川に挟まれた地域であることもあるだろう。現在の市域の東には中川、西には綾瀬川が流れており、これらの川はしばしば氾濫し、まちは洪水に見舞われた。

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