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紫式部さえ「出世の道具」に使った道長の悲しい性 権力をほしいままにした彼が「求めたもの」とは

東洋経済オンライン / 2024年2月25日 19時0分

そんな道長の計略のなかで、紫式部は「いちばんの功労者」でした。宮中に出仕した当初、容易にその雰囲気になじめず、すぐに彼女は里(実家)に帰ってしまう。しかも何ヵ月も休んでいたのですから、道長は相当にやきもきしたはずです。

しかし、紫式部はどうにか再出仕したあと、宮中での暮らしや仕事にも慣れ、再度、物語の執筆を開始します。それを見て道長は、ほっとしました。そして、出来あがった物語をさっそく帝に差しだすと、たいそうご満悦で、道長は、「自分の狙いが間違っていなかった」と確信します。

道長は紫式部の才能を高く評価し、貴重な紙や上等な硯(すずり)、墨(すみ)などをあたえました。

『源氏物語』は全体としては長篇小説ですが、五十余の短篇に分かれています。1つの短篇が仕上がるごとに、道長はそれを製本させて、表紙を付けたのち、帝に献上したようです。

そんなふうにして、紫式部がつぎつぎと物語を書いていかなければ、彰子の御殿へと通う帝の足がとどこおってしまいます。そのため道長は、「まだ新作はできぬのか」と、たびたび紫式部に催促したようです。

まるで流行作家と出版社の社長か編集長みたいな関係ですが、それほど道長は、作家・紫式部にご執心(しゅうしん)で、自身も『源氏物語』のファンであったのです。

紫式部と道長の本当の間柄

紫式部と道長の仲はどうなったかというと、もはや何の歌のやりとりもなく、記録も残っていないため、まるで分かりません。

ただし、紫式部は分別盛(ふんべつざか)りの30代後半(今日だと、50歳)、道長は40半ば(60すぎ)で、初老の身。もしや何らかの関係があったとしたら、まさに「老いらくの恋」ということになりましょう。

今井源衛氏は『人物叢書 紫式部』(吉川弘文館)のなかで、こんなふうに書いています。

「……左大臣ともあろう者が、事前に何の手も打たず、前ぶれもなしに、いきなり夏の夜中にのこのこと女房の局の戸を叩きに出かけて、開けてももらえずすごすごと引き揚げるとは、何という醜態か。道長としては、出来が悪過ぎるのである」

いずれ、『源氏物語』と作者の紫式部があまりにも有名になったために、2人の間の歌の交換について、後世の人びとは、さまざまな解釈をしてきました。

今井氏は「日記にも家集にも相手が誰とはいっていない」のに、「藤原定家(さだいえ)の撰(せん)した『新勅撰集(しんちょくせんしゅう)』には道長だとある」と指摘。根拠のない俗説をもとに、定家は「道長だ」と書き、さらにそれをもとにして、中世の『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』などの文書(もんじょ)類が出現したのではないか、と説いています。

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