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小田急線「成城」駅周辺、かつては神奈川県だった 東急の廃線「砧線」の謎から見えた意外な歴史

東洋経済オンライン / 2024年3月8日 6時30分

都内有数の高級住宅地・成城がかつては神奈川県だった?(筆者撮影)

もう、そんなに経つのか――。横浜高速鉄道みなとみらい線との直通運転開始にともない、2004年1月末に東急東横線の横浜―桜木町間が廃止になってから、2024年で20年となった。

【写真や図で解説】二子玉川―砧本村(きぬたほんむら)間2.2kmを結んだ東急砧線とは?

東京と横浜を結ぶインターアーバン(都市間路線)である東横線に廃線区間ができたというのは、やや驚くべき出来事だったが、実は東急には廃線になった先輩路線が存在する。玉電の愛称で親しまれた東急玉川線である。

玉電は、かつて渋谷―二子玉川園(現・二子玉川)間を結んでいた路面電車である。1907年4月に開業した玉川電気鉄道がそのルーツであり、1938年4月に東京横浜電鉄(現・東急)に合併された。そして、戦後の高度経済成長期にモータリゼーションの波にのまれ、1969年5月に廃止された。

砧を通らなかった「砧線」の謎

この玉電にはいくつかの支線が存在した。後に東急世田谷線となる下高井戸線のほか、天現寺橋線、中目黒線、後に大井町線に編入された溝ノ口線、さらに二子玉川―砧本村(きぬたほんむら)間2.2kmを結んだ砧線である。

今回、着目するのは砧線だ。同路線は関東大震災翌年の1924年3月に開業。震災からの都市復興のために大量に必要とされた多摩川の砂利を採取・輸送するとともに、旅客輸送も行った。

この砧線の廃線跡を地図でたどってみると、ある疑問がわく。現在の地図を基準にすると、砧線が走っていたのは、世田谷区玉川・鎌田にまたがるエリアであり、まったく砧を通っていないのだ。

砧の名を冠する都立砧公園が位置するのは、1km近く離れた東名高速道路の北側であり、砧という町名(字名)のエリアはさらにその北側、小田急線の祖師ヶ谷大蔵駅南側一帯である。さらに世田谷区の砧総合支所も、都内有数の高級住宅街が広がる成城学園前駅の近くにある。

これはおそらく、地名の変遷によるものだろうと推測はつくが、『新修世田谷区史』であらためて調べてみると、興味深い事実を知ることができた。その概略は以下のとおりである。

神奈川県だった三多摩地域

明治維新から間もない1869年、現在の世田谷区域の村々は、新設された品川県または長浜県(発足当初は彦根県)に編入された。長浜県に編入されたのは彦根藩の所領(飛び地)だった村である。

ただし、これは旧藩を温存した体制下での暫定的な措置であり、1871年7月に断行された廃藩置県とその直後に行われた府県統合の過程で品川県は廃止。長浜県所管の飛び地は東京府または神奈川県に引き渡されることになった。

こうして、この地域は東京府と神奈川県の境界に位置することになり、一部の村々は「一旦品川県が東京府に引継がれるかと思うとその一部が神奈川県に所属換になり、さらにそれが再び東京府に戻った」(『新修世田谷区史』)というように、どちらの府県に属するかで揺れ動くことになったが、後に砧線の沿線となる鎌田村などは神奈川県に属することになった。

なお、当時の東京府と神奈川県の様相は、現在の東京都と神奈川県とは大きく異なっていた。現在の東京都西部のいわゆる三多摩地域が神奈川県に属した一方、神奈川県西部は足柄県という別な県の管轄だった。つまり、当時の神奈川県は、北は現在の奥多摩町から南は三浦半島に至るまでを県域とする縦長の県だったのである(足柄県は1876年に神奈川県・静岡県に分割統合され廃止)。

次に訪れた大きな変化は、1889年4月以降に施行された近代的な市制・町村制の実施である。各市町村に独立の法人格を認め、条例・規則の制定権などを付与する一方、相応の資力が求められたため、町村合併が促進されることとなった。この過程で大蔵村、喜多見村、宇奈根村、鎌田村、岡本村の5カ村が合併し、新たに成立したのが砧村だった。

この「砧」という新村名は従来からの地名ではなく、このとき新たに採用されたものである。意味を調べると、「木槌 (きづち) で打って布を柔らかくしたり、つやを出したりするのに用いる木や石の台。また、それを打つこと」だという。

今の成城は「神奈川県北多摩郡砧村」だった

『新修世田谷区史』には、大正初めの1912年のデータではあるが、砧村や千歳村で養蚕業が非常に盛んだったことを示す数値が掲載されている。既存の地名を用いず、生産された繭で織られた絹織物に関連する新たな村名が考案されたのは、対等合併の意を打ち出し、争いを避けるためだったのだろう。

こうして誕生した神奈川県北多摩郡砧村の村域は、「砧村全図」(世田谷デジタルミュージアムに掲載)を見ると、南は多摩川沿岸から北は現在の成城・砧あたりまでを含んでいた。都内有数の高級住宅街として知られる成城の地の大部分が、かつて神奈川県だったというのはちょっとした驚きである。

なお、砧村が東京府に移るのは、三多摩が東京府に編入された1893年4月。さらに現在の成城一帯が住宅地として開発されるのは、大正末期に小田急線の建設計画が具体化してからである。

さて、せっかくなので砧線の廃線跡を歩いてみよう。ほぼ多摩川に沿う2.2kmの道のりは、散歩するのにちょうどいい。

砧線は二子玉川駅を出ると、渋谷方面に戻るように弧を描きながら、現在の玉川高島屋北側の「花みず木通り」へと進んでいた。1942年12月の地形図を見ると、玉川高島屋の辺りには、田んぼマークが並んでいる。80年という歳月の長さを感じずにはいられない。

花みず木通りを200mほど進んだ交差点の角には「砧線中耕地駅跡」と刻まれた石柱が立っている。二子玉川園駅から1つ目の中耕地駅があった場所だ。この駅名からも、かつて、この辺りにどのような風景が広がっていたかが想像できる。

砧線は、玉電の支線だけに軌道線(路面電車)のイメージがあるが、1968年に撮影された中耕地駅付近の写真を見ると専用軌道になっている。実は、1945年10月、砧線は大井町線の一部(旧・溝ノ口線区間。現・二子玉川―溝の口間)、京王線(当時は東急傘下)とともに、軌道線から地方鉄道線に変更されている。

路面電車の支線、砧線は「鉄道」だった

この変更申請が行われたのは戦時中の1944年8月であり、申請の理由について、『東京急行電鉄50年史』には、戦時における輸送力増強の観点から下記のように記されている。

「当時、砧線、大井町線の一部および京王線は、わずか一部分だけが併用軌道で、(中略)実際は列車の運転、線路の構造、運転営業など、すべて地方鉄道に準拠して経営されていた。折から運輸通信省が、輸送力増強の見地から、軌道を地方鉄道に変更する申請があれば許可する、との方針を打出したため、当社は列車の運転能率向上を図ることとし、3軌道線を地方鉄道に変更する手続きをとった」

ちなみに変更申請前の1942年、さらにその前の1930年の地形図で砧線の軌道を確認すると、全線がすでに専用軌道として描かれている。つまり、地方鉄道への変更のタイミングで急ぎ専用軌道化したわけではなく、もともと専用軌道だったのである(開業時、沿線の大半が田畑や荒れ地だったことからすれば当然か)。

ところで、「砧線跡」である花みず木通りには、歩道に埋め込まれたパネル画や、レール(レプリカ)を使用したガードレール、オブジェなど、さまざまなモニュメント的なものが設置されている。廃止から半世紀以上が経過した今もなお、地元の人々から愛されていることの証しであろう。

こうした地元愛が凝縮されたような「玉電と郷土の歴史館」(火・木・土・日のみ開館)には、ぜひ立ち寄ってほしい。花みず木通りの1本南側の中吉通りに面するビル1階にある同館は、地元で有名店だった「そば処大勝庵」が閉店した後、店主の大塚勝利さんによって、2012年に歴史館として再出発したもの。入り口付近に世田谷線で活躍したデハ71号車の運転台が移設されているほか、館内には所狭しと玉電ゆかりの品々が並ぶ。

今回、短い時間ではあったが、大塚さんから「砧線は地方鉄道線なので東横線や大井町線と同じ運賃体系だった。車内で国鉄への連絡切符も買えた」といったさまざまな話を聞くことができた。ここで仕入れた知識や、入手した大塚さん手作りの地図は、この後の砧線跡散歩に大いに役立った。

駅跡に残る東急社章の境界杭

花みず木通りに戻り、さらに歩を進めると、多摩堤通りと交差した先で野川を渡るが、川の手前に2つ目の停留所である吉沢駅があった。付近のクリニックの敷地と道路の境界には、駅跡を示す昔の東急の社章が刻まれた境界杭が2本、人知れず立っている。大塚さんによれば、かつては3本あったが、危険防止のためか1本が撤去されてしまったという。

その先、野川に架かる吉沢橋の歩道上には、橋を渡る砧線の電車の写真と共に、吉沢橋と砧線に関する説明文が掲載された案内が立っている。

野川を渡った少し先の右手に鎌田一丁目公園という小さな児童公園がある。近くのバス停名は「三角公園」。敷地が三角形なので、三角公園というのが通称なのだろう。当時の地形図には何も描かれていないが、この辺りに、「1940年から1942年の間だけ伊勢宮河原という駅が存在した」(大塚さん)という。

その先の右手には東京都市大学の総合グラウンドが広がっている。このグラウンドの入り口付近に、戦前に廃止された大蔵という駅があり、砂利の採取と積み込みが行われていた。この大蔵の砂利積み込み施設について、『ありし日の玉電』(宮田道一、関田克孝著)には、次の記述がある。

「大蔵の設備は本格的なホッパー(注:じょうご型の大型の容器)で、巻き上げ機によって線路中央にエンドレスケーブルを循環させ、トロッコを曳索に引っかけて移動させていた。トロッコはケーブルで勾配を引っ張り上げられ、そこには木造の砂利貯蔵庫を兼ねた砂利積み込み台が設けられ、人力に頼ることはなかった」

さて、ここまで来れば終点まであと少しだ。二差路を右側の道(バス通り)へ進むと、やがて目の前に公園が見えてくる。この鎌田二丁目南公園および隣接する砧本村バス停(折り返しロータリー)が、かつての砧本村駅跡である。

各地で姿を消す玉電の痕跡

ここで、残念なお知らせがある。筆者は2018年の夏にも砧線跡を歩いたが、当時は砧本村駅の上屋の一部が、サイズ縮小してバス停に転用され、残されていた。しかし、今回(2024年2月)訪れるとこれがなくなり、新しい待合所が建てられていた。近年、老朽化のために撤去されてしまったらしい。

廃止後、長い年月が経過しているので仕方のないことではあるが、各地の廃線跡から、こうした遺構が少しずつ、姿を消していっている。砧線と同時に廃止された玉川線(渋谷―二子玉川間)の痕跡も、下記のように次々と消滅している。

●玉川線の路線が地下鉄として継承された「新玉川線」の名称が、田園都市線への編入により2000年に消滅した
●2014年に東急百貨店東横店東館の解体工事中に「東横のれん街」の天井板をはがすと、玉電が通った通路の遺構であるアーチ型天井が現れ話題になったが、東館解体とともに取り壊された
●渋谷駅で、かつて玉川線乗り場と連絡していた「玉川改札」が、2020年に閉鎖された

このような状況からすれば、廃線跡を巡るならば少しでも痕跡が残っているうちにと、気持ちがはやる鉄道ファンも多いはずだ。

森川 天喜:旅行・鉄道ジャーナリスト

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