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「倍速消費」並みになった合意形成のスピード感 政策が次々と「検討なく」決められている理由

東洋経済オンライン / 2024年3月14日 9時30分

こうした傾向は、新自由主義に基づくグローバル化の流れの中で、民主主義の意味が変質したことと関連していると私は考えています。つまり、1960年代、1970年代ぐらいまでのかつての民主主義は、まがりなりにも一般国民の目線でよりよい社会の建設を目指す試行錯誤のプロセスでした。しかし現在では、その試行錯誤の主体が一般国民からグローバルな投資家や多国籍企業へと変わってしまったと言えます。

つまり、グローバルな投資家や企業は、1990年代に生じたグローバル化の流れの中で、自分たちがビジネスしやすい環境を作らない国に対しては、自分たちの持つ国境を越えて資本を動かす力を武器にして各国政府に圧力をかけられるようになりました。言うことを聞かない政府に対して、「もうあんたの国には投資しないよ」とか「資本を引き揚げるよ」と言って、例えば「法人税を下げろ」「人件費を下げられるように構造改革をしろ」と政治的圧力をかけることができるようになったからです。

そうなると、多くの普通の国民が、自分たちの国や地域社会の中で、いろんな人の話を聞きながら、国益や公益を探っていきましょうということは、残念ながら、今の民主主義の目的ではなくなっちゃったんじゃないかと思うんですね。外部の人が設定した目標をいかに効率よく実現するかが目的となってしまっていて、外見上は民主主義がまだあるという程度のものになっているのではないかと見ています。

中野:はい、ありがとうございます。続けて古川さん、いかがでしょうか。

政治が「公共の利益」に奉仕しない

古川:私は、「合意形成の放棄」という問題は、すなわち「ナショナリズムの放棄」という問題であると言ってもよいと思います。つまり、政治家が根回しや議論を通じて合意形成をしようとしない背景には、異なる意見や利害を持つ人々を、もはや同じ国民、同胞として見なしていないことがあると思うんです。

ネーション、つまり国民という共同体は、利害や価値観が異なっても、それでも自分たちは歴史と運命を共有し、共に生きていく仲間であるという意識に支えられています。しかし、この種の同胞意識や仲間意識が失われつつあるように思います。

例えば、いま北海道では、HBC(北海道放送)が製作した『ヤジと民主主義』というドキュメンタリー映画が公開されて話題になっています。2019年に当時の安倍晋三首相が札幌で演説をした際、ヤジを飛ばした一般市民を複数の警察官が取り囲み、その場から排除したという、いわゆる「ヤジ排除問題」を扱ったものです。

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