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子供の出世にも差「道長の2人の妻」の大きな格差 倫子と明子、それぞれが道長と結ばれた経緯

東洋経済オンライン / 2024年3月16日 10時40分

道長は2人の妻とどう結ばれたのか。写真は平安遷都1100年を期に市民の総社として創建された平安神宮(写真:terkey / PIXTA)

今年の大河ドラマ『光る君へ』は、紫式部が主人公。主役を吉高由里子さんが務めています。今回は藤原道長の妻である、倫子と明子のエピソードを紹介します。

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道長との結婚は反対されていた

987年12月16日、藤原道長は22歳のときに、2歳年上の倫子と結婚します。倫子の父は、源雅信です。源雅信の父は敦実親王であり、祖父は宇多天皇です。源雅信はいわゆる宇多源氏だったのです。源雅信は、娘・倫子が結婚する頃には、左大臣を約10年務めていました。

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一方、道長の父・藤原兼家は右大臣、孫の一条天皇の即位によって、摂政となり、源雅信より位は上でした。何の不満もない結婚のようですが、当初、源雅信は道長のことが、気に入らなかったようです。

『栄花物語』には次のようにあります。

道長は、源雅信が将来の妃候補として大切に育てあげていた娘・倫子に思いを寄せます。しかし、源雅信は2人の結婚に大反対していました。源雅信は、道長のことを「こんな青二才を婿にできるか」と言っていたそうです。

道長の「倫子を私の妻に」という声を聞こうとしません。確かに、道長は22歳とまだ年齢も若いです。道長の兄・藤原道隆は35歳、権大納言になっていましたから、それと比べたら、見劣りしたのかもしれません。

将来が未知数の道長に大事な娘をやれるのかというのが、源雅信の見解だったのでしょう。道長は、源雅信という「壁」がありながら、なぜ、倫子と結婚できたのでしょうか。そこには、源雅信の妻である穆子のサポートがありました。穆子は藤原朝忠の娘です。

穆子が「時々、物見などに出かけて様子を見ていますが、道長はただならぬ人物。私に任せてください」と夫を説き伏せて、娘と道長を結婚に導いたとされています。

『栄花物語』は、穆子は道長の将来性を見抜いていたと記しているのですが、この逸話は後世の創作の可能性もあります。道長には兄(道隆や道兼ら)がおり、そう簡単には昇進できないというのが、当時の実情だったからです。そうであるのに、穆子のみが道長の将来性を見抜いていたというのも、疑問が残ります。

父から勘当された道長

さて、結婚前後の道長は2つの災難に遭っていました。987年4月、道長は、車で、義兄(道長の異腹の兄)の道綱と賀茂祭に出かけていました。ところが道長が、見物中の右大臣・藤原為光の車の前を通ったときに、為光の従者たちから石を投げられます。

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