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大学の教養教育を「資本の論理」からどう守るか 加速する資本主義社会における「知識人の使命」

東洋経済オンライン / 2024年3月31日 11時0分

東大のようにトップの大学では学問の探求をグローバルレベルで続けてもらえばいいのですが、必ずしもそうでないところは、大学全入時代を迎えた今、学生たちにまず現実社会で生きていく力を身に付けさせてあげることが、教育の最低限の務めではないかということです。

斎藤:そうですね。大学人に関しては、労働者を解雇しやすいアメリカにおいてもテニュアというルールがあって、解雇をかなり難しくしています。食える・食えないだけの論理を教育や研究に持ち込むと、かなり歪んだかたちになってしまうということを、アメリカでさえ認めているということかもしれません。

教養とはメタ視点の土台

堀内:最後になりますが、斎藤さんがお考えになっている「教養とは何か」について、改めてお話しいただけますでしょうか。

斎藤:教養というのは、メタな視点に立つことができるための足場だと思っています。今の社会はとにかく金儲けをすればいい、この資格を取ればいい、このジャーナルに載ればいいというように、いろいろなところである程度、場合によっては絶対的に目的があらかじめ決まっていて、そのための手段をどう組み立てればいいのかというような、マニュアル化したゲームのようになっている。その中で効率性を求めて、そのゲームに勝ち残ることにみな必死になっています。

お金儲けをすればいいとなったら、その中で競争できます。よりすぐれた企業はどこか、できるビジネスマンは誰かという話であれば、数値化してある程度答えを出すことができるでしょう。しかし、そういうものではない、例えば、「良い人生とは何か」「何が正義なのか」という問いになった瞬間、みな意見が異なってきます。イスラエルとハマスはどちらが悪いのかというような問いも同じです。

教養というのは、そのような意見を一致できないものについてしっかり議論したり、そのためにまず考えたりすることができるようになるための土台になるものです。そのようなことは古典を通じてわかるように、われわれの先人たちが繰り返し議論し考えてきたことでもあります。だからこそ古典を読むべきなのです。

暗記や知っていることを増やすことで、現在の場に安住し、権力性を強固にすることは教養ではありません。そうではなく、古典に代表される教養や知に触れることで、それまでの常識が揺さぶられ、崩れるような経験をすることこそが教養なのです。ヘーゲルはそれを「本来の意味での経験」と呼んでいます。例えば、自分にとっては、サイードのパレスチナ人の視点から描かれる植民地支配、マルクスの描く資本主義の暴力性、石牟礼道子の水俣の歴史などに触れることが、東京出身である自分の常識への欺瞞的な安住を崩す教養の経験になったと思っています。

堀内:たくさんの貴重なお話をありがとうございました。

(構成・文:中島はるな)

斎藤 幸平:東京大学大学院准教授

堀内 勉:多摩大学大学院教授 多摩大学サステナビリティ経営研究所所長 

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