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「式部を何度も口説いた」妻子ある中年男性の正体 越前国にいる式部に繰り返し手紙を寄越す

東洋経済オンライン / 2024年4月13日 7時40分

式部は別の歌の詞書に「近江守の娘に言い寄っているという噂がある男性が、あなた以外の女性のことなど思ってはいませんなどと、しつこく言ってくるので、うるさく思って」と書いているのですが、その「噂がある男性」というのも「唐人を見に参りますよ」と言った男性と同一人物だと考えられています。

男性から想いを寄せられたことに対し、式部は「みづうみに友呼ぶ千鳥ことならば八十の湊に声絶えなせそ」と詠んでいます。(近江の湖に連れを求めていらっしゃるというではありませんか。同じことなら、あちこちのほうに声を止めずにかけてはいかが)というような意味です。この歌は、式部が越前に行く前のものと考えられています。

とにかく式部としては、この男性の想いに応える気はないようです。

ちなみに、このしつこい男性は、藤原宣孝であるとされます。式部とは親戚、「またいとこ」の関係でした。

宣孝の父は藤原為輔で、正三位権中納言でした。母は、藤原守義の娘。宣孝は、備後・周防・山城・筑前などの国司を経験しています。

平安時代の代表的女性として、紫式部と並び称される清少納言の随筆『枕草子』には、実は宣孝が登場しているのです(115段「あはれなるもの」)。それは、次のような話でした。

当時、大和国(奈良県)吉野の金峯山詣は、長い精進をして、質素な服装で行うのが慣習でありました。ところが、宣孝は「つまらぬ話だ。いい服を着て、参詣したら、なぜいけない。御嶽の神様が、質素な服で詣よ、などと仰るはずがない」と言って、紫のとても濃い指貫、白い襖(あお)といった派手な格好をして、参詣したのでした。

宣孝は長男の隆光にも、青・紅の衣を着せて参詣させました。人々は、昔からこのような格好で参詣した者はいないと噂し合ったようです。

そして990年4月1日、宣孝は京都に帰ります。すると6月10日、宣孝は筑前守に任命されたのでした。

『枕草子』には、宣孝のこのようなエピソードが載っているのです。

世の中の常識にとらわれない宣孝

世の常識にとらわれない豪放な人であったことがわかります。ちなみに、宣孝が筑前守に任じられたときには、40歳ほどでした。

式部にしつこく恋文を寄越したときは、50歳目前。20代後半の式部からしたら、かなり年上です。式部からしたら、そのことも、少しひっかかっていたのかもしれません。

しかも、先述したとおり、宣孝はすでに結婚して子どもがいました。藤原顕猷の娘との間に隆光が、平季明の娘との間に頼宣が、中納言・藤原朝成の娘との間には儀明(生母不明とする説あり)・隆佐・明懐が生まれています。

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