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「ライバル自滅」絶頂期でも道長の不安尽きない訳 娘の彰子も入内する中、道長は次の一手を模索

東洋経済オンライン / 2024年4月14日 7時40分

前代未聞のことで、公卿の多くは「ありえない」と反対。実資ももちろん、「皇后4人の例は今まで聞いたことがない」(「皇后四人の例、往古聞かざる事也」)と批判している。

それにもかかわらず、道隆は強権を発動して、定子を中宮にしている。今や亡き父の兼家のやり方にならって、一条天皇とわが子の間に子を産ませて、その子を天皇にすることで、外祖父として、権力を掌握しようと目論んだのだ。

その一方で、道隆は、長男の伊周をどんどん引き上げていき、21歳の若さで内大臣にまで出世させている。これも父の兼家のやり方を踏襲したもので、自分にしてくれたことを我が子にも行い、権力基盤を確かなものにしようとしたのだ。

ところが、それから5年後の長徳元(995)年に、病によって道隆は命を落とす。ちょうど「赤斑瘡(あかもがさ)」という今でいう「はしか」が大流行していた時期だったが、道隆の場合は、飲み過ぎによる糖尿病が原因だったとされている。

その後は、道隆の弟で、右大臣だった道兼が代わって関白となる。花山天皇を出家までさせた労が報われたかに見えたが、数日後に病死。「7日関白」に終わった。

道兼の死によって、道隆の長男である伊周と、道隆の弟である道長が、後継者争いを繰り広げる。強敵に見えた伊周だったが、長徳2(996)年の「長徳の変」によって、自滅している。

目まぐるしく変わる情勢に道長の一手

道長からすれば、自分より前を走っていた兄の道隆と道兼、そして甥の伊周が勝手に転んで、気づけば先頭を走っていた……。長保元(999)年、12歳になった彰子が入内したのは、まさにそんな状態のときだった。豪華な屏風和歌にこだわったのも、自身の権勢を打ち出すためにほかならなかった。

とはいえ、まだまだ先はわからない。彰子の入内とちょうど同時期に、中宮の定子が、長保元(999)年11月7日に、一条天皇の第一皇子となる敦康親王を出産する。天皇は大喜びしたというが、道長はその日の日記で「彰子に女御宣旨が下った」と娘のことを書くだけで、第一皇子の誕生については触れていない。

目まぐるしく変わる政局のなか、道長が放った次の一手――。それが、「定子を皇后とし、彰子を中宮にする」という、亡き兄の道隆をも上回る強引な人事だった。

【参考文献】
山本利達校注『新潮日本古典集成〈新装版〉 紫式部日記 紫式部集』(新潮社)
倉本一宏編『現代語訳 小右記』(吉川弘文館)
今井源衛『紫式部』(吉川弘文館)
倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社現代新書)
関幸彦『藤原道長と紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』 (朝日新書)
繁田信一『殴り合う貴族たち』(柏書房)
服藤早苗 『藤原彰子』(吉川弘文館)
朧谷寿『藤原彰子  天下第一の母』(ミネルヴァ書房)
真山知幸『偉人名言迷言事典』(笠間書院)

真山 知幸:著述家

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