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日本の半導体の凋落招いた「日米協定」の無理難題 1986年の締結前は"日の丸半導体"が世界を席巻

東洋経済オンライン / 2024年4月30日 12時20分

この協定により、日本の半導体メーカーの現場でどんなことが起きていたかは、おそらくその場に身を置いていた関係者以外、知ることはないでしょう。

そこで、筆者自身、辛酸をなめるに至った舞台裏を記しておくことにしましょう。

無理難題を押し付けられた、まさに「不平等条約」

まず日米両政府が日本の半導体メーカーに対し、半導体製品の「コストデータの提出」を求めるようになりました。

いわゆるFMV(Fair Market Value:公正市場価格)を算出するためという名目で、当時、担当者だった筆者たちはどのような対応を余儀なくさせられたか。

一日の終業時に「ラインで流れた個々の製品にどれくらいのリソースを掛けたかの報告義務」を課せられるようになりました。多くの半導体工場では、異なる製品が同じラインで製造されています。

このため、製品ごとにそれぞれのプロセスで使用される装置や材料、あるいは作業に掛けた人件費の割合(賦課率)などを算出するというのはたいへんな労力です。

そもそもDRAMで日本メーカーが圧倒的シェアを占めているのは「ダンピングによる安売りをしているためでは?」との疑いから、「日本の半導体の価格はアメリカ政府が決める!」という、とんでもない取り決めだったといえるでしょう。

さらに現場サイドにボディーブローとして効いたのは、「日本市場における外国製半導体のシェアを20%以上にする」という条項です。それまで外国製製品が10%だったのを倍増しなければならないという「購買義務」だったのです。

このような日米半導体協定の発効が原因のすべてではないにせよ、第2次協定締結(1991年)の翌1992年には、半導体市場において1989年には8位にすぎなかったインテルが一気にNECを抜いて世界1位になり、DRAM(メモリ)の分野ではサムスンが日本メーカーを抑えて1位を占めるに至りました。

当時の"トラウマ"がその後の政策にも影響を

このような不平等な半導体協定を呑まざるを得なかった日本の半導体業界が受けた直接的ダメージはもちろん、当時の政府の対応や結果として残されたトラウマが、その後の半導体業界と政策に大きな負の影響を残したのは間違いないでしょう。

その後も半導体に関するいくつかの官民合同の国家プロジェクト、ASET(技術研究組合超先端電子技術開発機構)、Selete(半導体先端テクノロジーズ、通称セリート)、ASPLA(先端SoC基盤技術開発)などが起こされましたが、結果としてどれも日本の半導体産業全体の復権に寄与したとは思えません。

その大きな理由は、まず達成すべき明確なテーマの設定、各社からの派遣メンバー(お付き合い意識を超えて自社のエース級を出したか?)、予算がテーマ別に細切れであまりにも少額、国の政治的介入、経過と結果に対する評価基準の曖昧さ・甘さ等々によると考えます。

いっぽう、同じ時期の韓国、台湾、そして近年では中国がそれぞれの政府の手厚い庇護のもと、半導体産業を大きく伸ばしたのとは対照的です。

菊地 正典:半導体エネルギー研究所顧問

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