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「利益の最大化」だけが目的の企業が招く暗い未来 企業が放棄してしまった「共通善」という役割

東洋経済オンライン / 2024年5月2日 11時30分

さらに重要なのは、利益という動機はあくまで手段であって、それ自体が目的ではないとスミスが考えていることだ。企業が利益を追求することで、結果的に社会に恩恵がもたらされると信じているからこそ、わたしたちは企業に利益の追求を認めているのだ。スミスの考えによれば、企業には公共の目的があり、その目的とは共通善を促進することだとされている。

利益の追求は目的ではなく「手段」だった

企業と共通善の結びつきは、かつては今よりもはるかにはっきりしていた。当初、企業は君主や政府から認可を得る必要があり、認可を得るためには、採算の取れる事業であることに加え、国のためになる事業であることも示さなくてはならなかった。

1600年、東インド会社はエリザベス1世に対し、「自社の航海の拡大をめざすと同時に、イングランド王国の名誉のために」活動することを誓った。ユニオン・パシフィック鉄道には南北戦争の最中に議会から認可がおりた。大陸横断鉄道が開通すれば、分断された国の統合を図れるというのが支持者たちの主張だった。

前世紀に、わたしたちは企業の本来の精神を見失ってしまった。もとは手段だった利益の追求が目的と化してしまった。そのような変化には、法律の影響もいくらかあった。

20世紀に入った頃には、もう君主に認可を求める必要はなく、地域の役所に書類を提出するだけで企業を設立できるようになっていた。企業が存在意義の説明を求められることはなかった。しかしそれよりも大きかったのは、政治の影響だ。共産主義の脅威と冷戦に直面した西側諸国は、資本主義の価値への信頼を強めざるを得なかった。

企業はもはやアダム・スミスが述べていたような、欠点はあるが有用なものという位置づけではなく、西側の生活を特徴づけるもの、共産圏の暗愚な市民と自分たちを区別するものと見なされた。

こうして民主主義と資本主義とが同義語になった。その結果、企業は使われるものから称えられるものに変わった。企業がわたしたちの特徴になると同時に、わたしたちは企業をもてはやすようになった。

しかし、企業の歴史の中で起こったこの変革は、危険な副作用も招いた。企業が成長し、巨大化する一方で、今や企業に公共の精神が求められることはまれだ。市場の倫理性よりも、市場の効率性が問われる。

ある企業が儲かっていれば、それは企業の効率性が高い証拠であり、効率性の高さこそ、追求するべき善である。こういう考え方が社会だけでなく、企業のリーダー自身のあいだにも浸透している。

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