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一条天皇が「道長の甥」伊周の関白就任を阻んだ訳 道隆は我が子をどんどん出世させたものの…

東洋経済オンライン / 2024年5月5日 7時50分

内大臣の身でそんなことを言い出すのは、さすがに勇み足だったようだ。伊周ウォッチャーでもある実資は、もちろん『小右記』で、このことに触れている。

「前例がないことではないか。稀有だと言うべきことだ」

アホらしい、という声が聞こえてきそうだが、伊周が藤原詮子にまで働きかけると、さらに表現をエスカレートさせている。

「このことはきっと嘲笑されるだろう。ようやく顎が外れるほどのことだ」

伊周はというと、そんな周囲の冷たい目もなんのその、一条天皇の動きが鈍いと見るや、御前に参入して、自ら一条天皇に抗議する始末。父が病によってどうなるかわからないなか、精神的にも不安定だったのかもしれない。

このような伊周の暴走に、眉をひそめた公卿は、実資だけではなかっただろう。

道隆は伊周のためを思ってどんどん出世させたが、結果的には孤立を招いたといってよい。それでも、道隆は病床においてもなお、息子を思い、一条天皇に「伊周を関白にしていただきたい」と奏上しているのだから、どうしようもない。

注目すべきは、これに対して、一条天皇はきっぱりと関白の任命を拒否していることだ。

伊周への反発があちこちから起きていることは、一条天皇も感じていただろう。また、自身も要求がエスカレートするばかりの、道隆と伊周の親子にうんざりしていたのかもしれない。

そして、何よりも母の詮子が、伊周の関白就任を望まなかったのが、一条天皇の気持ちを固めたに違いない。詮子からすれば、伊周が関白になれば、その座は伊周の息子や弟に引き継がれていくのは明白であり、何のメリットもない。

詮子はかねてから、兄弟のなかで、弟の道長を可愛がっていた。道長が2人目の妻である源明子との縁談をまとめたのは、詮子の働きかけがあったともいわれている。詮子とすれば、道隆の次は道兼、その次は道長という絵を描いていたのだろう。

一条天皇からしても、後見である国母の詮子の意向は無視できない。前述したように、道隆は、妹の詮子を一条天皇の女院とすることで、自らの影響力を高めようとしたが、そのことが結果的には、息子・伊周の関白就任を遠ざけることとなった。

「内覧」の地位をフル活用する藤原道長

道隆が死去して17日後の4月27日、一条天皇は、道隆の弟で右大臣の藤原道兼を関白に任命する。しかし、すでに疫病に冒されていた道兼は5月8日、35歳でこの世を去ってしまう。

「七日関白」と呼ばれるように、道兼が政権を握ったのは数日のみだったが、その意味は大きかった。道隆から息子の伊周、ではなく、弟の道兼へといったん継承されたことで、その後は、弟の道長へという流れができたからだ。

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