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37歳で死去「道長の甥」伊周が遺した"最期の言葉" 道長はライバルである伊周をどう思っていた?

東洋経済オンライン / 2024年6月8日 10時30分

また『大鏡』は、道長と伊周の次のようなエピソードも載せています。

道長が金峯山寺(奈良県吉野山にある修験道の中心寺院)に参詣したときのことです。その途上で、「伊周方が不穏な企てをするのではないか」との噂が飛び交いました。

道長方も警戒したようですが、特別なことは起こらず、無事に道長は帰還します。「不穏な企て」というのはデマだったようですが、その噂は、伊周の耳にも入りました。そして、それが道長にも伝わったということも知るのです。

伊周は「笑止千万なこと(非常にばかばかしい)」と思ったようですが、そのままにしておくのも悪いと感じ「誤解」を解くために、道長に会いに出かけました。

伊周と対面した道長は、面白可笑しく参詣道中の話をしたようですが、伊周の様子は、どうもオドオドしています。道長から何か責められると思ったのでしょうか。

道長は可笑しいと思いながらも、気の毒に感じ「最近、双六(すごろく)をしていないので、気が晴れません。どうです、双六をしませんか」と場をほぐそうとしました。

『大鏡』は、道長のその言動を、伊周に対する同情の心があるためだとしています。道長は、双六盤を取り寄せて、盤面を拭うなど、準備に勤しみます。

そうこうしているうちに、伊周もようやく心が落ち着いてきたようです。道長も伊周も双六が大好きだったようで、着物を脱ぎ、腰だけを覆った姿で、双六を楽しみました。それも、明け方まで。

道長と伊周がこのように打ち解けたら、伊周は子どものような性格であるため、すっかり気を抜いて、また何かやらかさないかと、周囲の人々はヒヤヒヤしていたようです。

ちなみに、この双六勝負には賭けものがありました。伊周は、古い何とも言われぬ由緒ありげな物。道長は、新しく面白みのあるもの。具体的に何を指しているのかはわかりませんが、とにかく2人は、賭けものを考えて、双六勝負に臨んだのです。『大鏡』によると、伊周は終始負けっぱなしだったようでしたが……。

37歳で死去、伊周の最期の様子

そんな伊周は、花山法皇に向けて矢を放つという不敬事件(矢を射たのは従者)により、996年に太宰府に護送されますが、翌年には都に召還されます。そして、1010年、失意のうちに、37歳で亡くなりました。

『大鏡』には、伊周の最期の様子も記されています。臨終間際になっても、伊周はそこまで苦しんではいなかったようです。

しかし重体になったとき、伊周の家族は、祈祷のために僧侶を呼ぼうとしますが、来られる者がいませんでした。どうしようかと思い、頼ったのが、道長でした。

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