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荒れ邸から二条院へ、突如始まった少女の新生活 「源氏物語」を角田光代の現代訳で読む・若紫⑩

東洋経済オンライン / 2024年6月16日 17時0分

「下手だからといってまったく書かないのはよくありません。教えてあげよう」

それを聞いて姫君は横を向いて隠しながら何か書きつけるが、筆をとるその姿があどけなく、光君はひたすらいとしさを覚え、その自分の心が自分でも奇妙に思えてくる。

「書き損ないました」と姫君が恥ずかしがって隠そうとするのを、光君は無理に見てみる。

かこつべきゆゑを知らねばおぼつかないかなる草のゆかりなるらむ
(恨み言をおっしゃるそのわけを知りませんから、なんのことだかわかりません。どんな草のゆかりなのでしょう)

と、まだ幼くはあるが、将来の上達が目に見えるほどふくよかに書いてある。亡くなった尼君の字に似ていた。今風の手本で習ったなら、きっと上手になるだろうと光君は思う。人形なども、わざわざ家をたくさん作っていっしょに遊んでいると、逢えない人へのもの思いも、この上なくなぐさめられる。

落胆した兵部卿宮は

あちらの邸に残った女房たちは、兵部卿宮がやってきて姫君の行方を問い詰めても、なんとも答えることができず困り果てた。しばらく人に知らせないでおこうと光君も言っていたし、少納言もぜったいに口外しないようにと言っていた。少納言が姫君さまをどこかわからないところにお連れしてお隠ししたと、困ったあげく女房たちは答えた。

仕方がないと落胆した兵部卿宮は考える。亡くなった尼君も、本邸に姫君が引き取られることをひどく嫌がっていたから、少納言は出過ぎた考えから、一途に思い詰めてしまったのだろう。お渡しするのは困りますなどと穏やかに言えばいいものを、そうも言わずに自分の一存で姫君を連れ出して、行方をくらましてしまったのだな……。どうすることもできず、兵部卿宮は泣く泣く帰っていった。

「もし行方がわかったら知らせなさい」と言われても、女房たちは迷惑に思うばかりだった。兵部卿宮は、北山にいる僧都にも行方を尋ねてみたが、どこにいるかはわからずじまいである。もったいないほどだった姫君のうつくしい器量を恋しがり、兵部卿宮は胸を痛めた。その妻も、姫君の母だった女を憎いと思う気持ちも失(う)せて、姫君を自分の好きに扱ってやろうと思っていたあてが外れて、残念に思うのだった。

西の対にはだんだん女房たちが集まってきた。遊び相手の女童や幼い子どもたちは、姫君と光君が、見たことがないほど素敵な二人なので、屈託もなくいっしょになって遊ぶ。姫君は、光君のいない夕暮れなどはさみしがり、亡き尼君を恋しがって泣くこともあるが、父宮のことをとくに思い出すことはない。もともといっしょに暮らしていたわけではないからだ。今はただ、このあたらしい親にたいそう慣れ親しんでいる。光君がよそから帰ってくると真っ先に出迎えて、あどけなく相手をし、遠慮することも気詰まりに思うこともなく、光君の懐に抱かれている。まだ夫婦ではないにせよ、それはそれとして、光君にはかわいくて仕方のない存在である。もう少し分別がついて、何かと面倒な関係になってしまうと、気まずくならないかと男も遠慮するし、女は女で恨み言を言いはじめたりして、思わぬ揉(も)めごとが起きてくるものだが、この姫君はまったくなんとかわいらしい遊び相手だろう。自分の娘でも、このくらいの年頃になれば、打ち解けて振る舞ったり、心置きなくいっしょに寝たりすることは、とてもしてはくれないだろう。まったくこれは、本当に風変わりな間柄のだいじな娘だ……と、光君は思っているようだ。

*小見出しなどはWeb掲載のために加えたものです

角田 光代:小説家

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