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「侵攻の引き金」を引いたウクライナの"失策" 対立の根底には2つの「ロシア人像」がある

東洋経済オンライン / 2024年6月25日 20時0分

ウクライナのロシア人たちは、位置的にはロシアに近い東部や南部に多い。東部ではドンバス地方(ドネツク州とルガンスク州)、そして南部ではクリミア半島だ(クリミアはもともとロシアの領土だったが、1954年にフルシチョフが当時のウクライナ・ソビエト社会主義共和国に移管している)。この地域の人たちは日常的にロシア語を使っている。

一方で、「自分たちは決してロシア人ではない」と考える人たちもいる。こちらはウクライナ西部に多い。とくに最西部のガリツィア地方ではその意識が強い。

この地域は歴史的に見ると、オーストリア・ハンガリー帝国(一般的にはハプスブルク帝国と呼ばれる)の領土であり、第1次世界大戦の敗北によって帝国が解体された1918年以降はポーランド領となっていた。

ロシア領(ソ連領)になるのは第2次世界大戦後であり、また日常的にウクライナ語も使われていることもあって、ロシアに対する思い入れは皆無に等しかった。いや、それどころか、むしろ積極的に嫌っているとさえいってよいかもしれない。

これから触れるクリミア半島併合のあと、ガリツィア地方の中心都市であるリヴィウではプーチンの顔を印刷したトイレットペーパーが人気商品になったという話もあるほどだ。

このウクライナにおける東南部と西部のロシアに対するスタンスの違いは、第2次世界大戦中の対ナチス・ドイツでも浮き彫りにされる。

このときソ連兵としてナチス・ドイツと戦ったウクライナ人は約200万人。一方、ウクライナ西部の人たちはナチス・ドイツに協力してソ連軍と戦った。その数は約30万人と伝えられている。

また、東と西では信仰する宗教も異なる。ロシアに近い東部はロシア正教を信仰しているが、西部に関してはカトリックの影響が強い「ユニエイト教会」(イコン〈聖画像〉崇敬や下級聖職者の妻帯が認められるなどは正教会と同じだが、ローマ教皇の首位性と教義的にはフィオリクエ〈子からも〉を認める東方典礼カトリック教会)の信者が多い。こうした宗教の違いも対立に影を落としているのだ。

このような対立があることを踏まえたうえで、マイダン革命のその後を見てみると、東部と南部の親ロ派の人たち(広い意味でのロシア人)が親欧米政権に対し「冗談じゃない!」と反発したことも理解できる。

相次ぐウクライナからの「独立」の動き

ウクライナ共和国内における自治共和国としての地位を確保していたクリミア(1996年〜)は、ヤヌコビッチ政権崩壊後の暫定政権に対する親ロ派のデモが拡大するなどしたのち、2014年3月にはウクライナからの独立を問う住民投票を実施した。

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