「物価が上がらなければいいのに」と嘆く人たちへ 物価の権威・渡辺努に小幡績が迫る【前編】
東洋経済オンライン / 2024年7月8日 8時20分
物価が上がることがなぜ日本に必要なのか。「デフレ」と称された状態の何が本当の問題だったのか。
著書『物価とは何か』をはじめ、物価研究の権威である渡辺努・東京大学大学院経済学研究科教授。リレー連載「新競馬好きエコノミストの市場深読み劇場」が人気の小幡績・慶応義塾大学大学院教授。2人は東京大学経済学部でゼミの先輩・後輩にあたる旧知の仲だ。
小幡氏は自称「渡辺努ウォッチャー」。かねて物価をめぐる渡辺氏の発信を追ってきたという。「僕もまだ渡辺理論をわかっていないところがあるし、世間ではちゃんと理解されていないと思うので、とことん聞きたい」。
対談のような、インタビューのような2人のやりとりから浮かび上がる、日本経済の根底に巣くう課題とは。前後編でお届けする。
【後編「日銀は「円安」「国債の山」「次の緩和」をどうするか」は7月9日公開予定】
小幡 そもそも、日銀はなぜ「物価目標2%」を掲げて異次元緩和をしなければならなかったんでしょうか。
物価がどんどん下落する「デフレ・スパイラル」だったら止めなければならないけれど、日本はせいぜいインフレ率がマイナス1%程度の「微妙なデフレ」だった。
日銀は2013年から異次元緩和を続けてきましたが、結果論からすると、物価には効かなかったし、ひずみがたくさん出ている。為替レートが円安に行きすぎたこともそうだし、みんなの関心や政策上のリソースがデフレ脱却に注ぎ込まれてしまい、実質の経済成長率をあげるようなリアルな経済の面が手薄になったことは問題です。
デフレの問題は「個々の価格が動かなくなったこと」
渡辺 ゆっくりと物価が上がるようになれば、リアルな経済に影響があります。
多くの人は「デフレのコストは大きくない」って言うんだけど、日本では、平均的な物価の上昇率が0とかマイナス1%になったこと以上に、「個々の価格が動かなくなったこと」が問題だった。そこが、僕の考えが、他の人と違う最大のポイントです。
『
1990年代前半までは、個々の価格は勝手に動き回っていました。1995年ぐらいから価格上昇率がゼロの商品がぐっと増えてきた。個々の価格の動きが止まってしまったわけです。何十年もかけて起きたわけではなく、数年間のうちにそういう動きが生まれました。
企業は通常、価格を決めるパワーを持っているわけですが、それが奪われてしまった。そうすると企業は、何か新しい商品を作るために投資して、高い価格をつけて儲けることができません。最初からいい商品を作ることをあきらめる。価格をコントロールできない環境では、企業はアグレッシブな行動ができなくなってしまう。
それでも当然、収益を上げなければいけないので、じゃあコストカットとなって、経済がどんどん後ろ向きに回ってしまう。これがデフレの最大の弊害だと思っています。
小幡 個々の価格が動かなくなったのは、私は企業が根性なしだからだと思うわけです。他の国では、いつまでも同じ商品をコストカットで作らず、あの手この手で新製品を出してうまく価格を変えていく。
企業が価格改定力を失ったのは、企業が悪いのか、それとも状況が悪かったのか。状況だとしても、私には、金融政策とは無関係な、産業構造にあると思うのですが。
渡辺 個々の企業が価格決定力を失ったのは、消費者が「価格は上げないのが当然」だと思っているからだと僕は思う。企業が価格を上げれば、消費者は「価格を上げるのは悪い企業」だと逃げていくし、企業同士でも、他の企業が上げないと思うと、怖くて上げられません。
社会全体が共通の認識として「価格は変わらないもの」と信じてしまっていて、個々の企業が解決できる問題じゃなかったんです。
小幡 私はそれも、消費者の貧乏人根性なんだと思う。いったん価格が上がらない状況にはまり込んだら、企業も消費者もみんなが萎縮した形で均衡しているんだから、マクロの金融政策では抜け出せないでしょう。企業が行動を変えるようなインセンティブを与えるとか、ミクロの政策でないと効かないのでは。
渡辺 僕の考えに賛成か否かはさておくとして、
実は、2013年に異次元緩和を始めた黒田東彦前総裁も説明したことがないんですよ。僕はこう解釈しました。消費者や価格をつける企業の人たちのマインドを「価格というのは上がるもの」に変えようとしているんだと。
日銀が公表した企業サーベイをみると、今のインフレ経済から過去を振り返って、「デフレの弊害は確かに大きかった」という認識が企業経営者の間に広まっているように思います。
価格が動かないと、資源配分が歪む
小幡 要は、個々の価格が動かないというのは、価格が適正に決まっていない状態ということですよね。価格メカニズムによって資源配分を行うマーケットが非効率であることが問題で、ダイナミズムに欠けている。
渡辺 海外の人にはこの話がなかなか理解されません。こういう説明だと伝わると気づいて、2年前ぐらいから僕が使っているのが、旧ソ連の例です。
旧ソ連の経済システムは価格というシグナルそのものがなく、生産量を割り当てていましたが、やっぱり失敗する。日本では価格はありますが、動いていなければ価格メカニズムがないに等しい。その結果として資源配分が歪んできた。
実はトータルの物価上昇(インフレ)率は1%でも2%でも、5%でもいいんです。平均値が上がるほど、分散(バラツキ)も増します。行きすぎたインフレがなぜいけないのかというと、不確実性が高すぎて資源配分が歪むからです。10%や20%まで上がると明らかに歪みが起きますが、5%ぐらいまでなら、ほとんど歪みが起きないというのが研究結果です。
小幡 私は渡辺理論を勉強しているうちに、「ゼロ」が問題なんだと思うようになりました。
個々の企業は価格を上げると他社に客を取られるし、価格を下げても、ライバルも追随するので、どちらにも動けない。しかし、それは現状維持がゼロの場合とそれ以外では、現状維持への吸引力が大きく異なる。ゼロは吸い込むパワーがものすごすぎる。それが問題だと。そういうことでしょうか。
渡辺 「ゼロインフレが望ましい」という議論では、個々の価格がダイナミックに動いているけれど、全体としては非常に調和がとれている、一番うるわしい形を目指しています。
でも、日本では個々の価格が動かない結果として、平均としての物価も動かなかった。「ゼロ」は昨日150円だったモノが今日も150円という現状維持なので、皆がそこに落ちこみやすいわけです。
小幡 その状況を壊さなければいけないことはわかるんです。
渡辺 問題は、マクロの金融政策で壊れるかどうか、ですね。
異次元緩和より「変える力」が強かったもの
小幡 私と渡辺さんは、問題意識は一緒ですが、アプローチの仕方が違う。私は金融政策で変えるのは無理だから、個々人が頑張れと思っています。
ここ数年でわかったのは、「円安で輸入価格が上がったのは目に見えるから、値上げせざるをえないとわかれば皆、受け入れる」ということだと思うんですが、どうですか。
渡辺 異次元緩和は実は、それと似たことを政策的にやりたかったけれど、消費者や企業経営者に影響を与えるようなメッセージは出せませんでした。人間が行う政策よりも、パンデミックや戦争のほうが定常状態を変える力としては強いんだろうなと思います。
小幡 私が懸念しているのは、今みんな値上げしていますが、非常に日本的で、個々の企業が自力で価格をつける度胸がないまま、要は「値上げバブル」なわけです。常に全体に流されていて、前と何も変わっていない。これではまた元に戻ると思うんですよ。
渡辺 実は、賃金もまったく同じで、横並びで同調し合いながら上げている。
特に賃金については、「上げられる企業と上げられない企業が出てくるのはよくない」と言われるけれど、僕は払えるところは賃上げして、払えない企業は賃上げできないという「格差」が生じる状態がまさに目指すべきことだと思う。
企業に貢献できる人は賃金をもっともらえばいいし、そうじゃない人は賃金が上がらないというのは当然あるべきこと。皆が同じように上がるなんてことは起こらないですよ。生産性に応じた賃金というのが原則です。
物価が上がっているのに自分の賃金がそこまで上がらないかもしれないと思ったら、賃金を上げるために転職したりして頑張るのが競争というものです。人と競争したくない、だけど値上げも嫌というのでは、社会が回りません。
「現状維持で安心・平等」は壊したほうがいい
小幡 中国やアメリカでは、稼いでいる人が価格を気にせずにほしいものを買うという行動が消費市場を動かしているので、価格が上がりやすい。日本ではケチケチ行動の消費者がほとんどですから、価格は動きにくい。
渡辺 要は価格も賃金も、現状維持で安定させると安心で平等。そこにあまりにも重きを置きすぎていたわけですよね。みんな変えないんだから、自分も同じままで問題ない。僕はその状態は壊したほうがいいと思うし、ようやく壊れつつあるけれど、完全には壊れていないのも事実です。
小幡 日本は「みんな一緒」のマインドだから、その波が大きくなるとバブルになって、歪みが大きくなってしまう。1980年代後半の日本のバブルのようなバブルは、他に例がないそうです。
日本はバブルになりやすい国、ブームに流されやすい国なんです。値上げも賃上げも、今はブームになりすぎてやりすぎで、反動で消費者の節約志向がかえって強まり、今のブームが終わったら、以前よりも酷い価格が動かない経済になってしまうかもしれない。
渡辺 今は同調だろうがなんだろうが、価格が動いてくれればもうけもの。スーパーなどの販売価格をPOSデータでみても、これまで価格が動かない商品の割合が7割だったのが減ってきています。顕著に減って
価格も賃金も動かない状態からとにかく脱出する。そうなりつつあるから、しっかり固める時だと思います。【後編は7月9日公開予定】
(対談は2024年4月23日実施 構成:黒崎亜弓)
小幡 績:慶応義塾大学大学院教授
渡辺 努:東京大学大学院経済学研究科教授
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