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泉房穂「本人の幸せは本人にしか決められない」 障害がある弟の「満面の笑み」が教えてくれた

東洋経済オンライン / 2024年7月17日 17時0分

もうひとつ、私の人生の節目となる出来事は、弟が小学校に入学する時のこと。

2歳で障害者手帳に「起立不能」と書かれた弟でしたが、両親は諦めなかった。スポ根漫画『巨人の星』の星一徹が息子の飛雄馬の体に装着したようなギプスを弟の体につけたりして、膝小僧を擦りむいて血だらけになるのも構わず、「歩け、歩け」と歩行訓練を続けていました。

私自身は、そんな無茶苦茶な根性論で歩けるようになるんかいなと思っていたけれど、果たして弟は4歳で立ち上がり、5歳でよちよちと歩き出しました。あの瞬間は、家族で抱き合って喜びの涙を流したものです。「6歳の小学校入学に間に合った」と。

そして、父も母も通い、私も通っていた地元の小さな小学校ですが、そこに弟も一緒に通えると思って喜び合ったのも束の間、行政は「足に障害があるのならば、養護学校(今の特別支援学校)へ行ってください」と言い放ちました。

自宅のすぐ目の前に地域の小学校があるのに、電車やバスに乗って、足の悪い弟を遠くの学校に連れて行けという。さすがにうちの両親も私もブチ切れました。必死に努力し、よちよち歩きながら歩けるようになった子どもに対して、「助けましょう」ではなくて、「他人の迷惑にならんように遠くに行け」と言う行政に、私も唖然としました。

「そんなもん、行かせられるわけないやないか!」と、家族で粘り強く嘆願、交渉し、ようやく弟も、私と同じ近所の小学校に入学することが認められましたが、2つの条件をつけられました。

1つは、送り迎えは必ず家族がすること。そして2つ目は、たとえ何があっても行政を訴えたりしないこと。この条件を受け入れると一筆書くことで、弟はようやく私と一緒の小学校への入学を認められたのです。

弟の通学には、家族が毎日送り迎えすること、という条件がつけられましたが、うちは貧乏漁師の家です。父も母も朝の2時半には家を出て漁に行かなければなりません。弟が小学校に入学した年、私は5年生でしたが、弟に付き添って登校するのは私の役目になりました。

学校の人も近所の人も、みんな人柄はいいのだが

私は、弟の教科書をすべて自分のランドセルに押し込み、弟には空っぽのランドセルを背負わせて、周囲の冷たい目を感じながら登校していました。誰も手助けしてくれる人はいません。

正門をくぐった右手にトイレがありましたから、毎朝、弟と2人で「大」の用を足すほうの個室に入って、弟のランドセルに教科書を全部入れ直して、弟を教室まで連れて行き「闘ってこい、頑張れ」と声をかけて送り出しました。毎日戦場に赴くような気持ちでした。なんでこんなに周囲は冷たいんやと、悔しい気持ちでいっぱいでした。

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