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謎の多い「博士課程」、経験者が語る本当の価値 知識を「学ぶ」のではなく「作りに行く」場である

東洋経済オンライン / 2024年9月12日 14時30分

私は博士課程の経験者の一人として、

「博士課程に行って本当によかった」

と思っている。これは、研究者にならなかったとしても変わらないだろう。

博士号は国際的なライセンス

研究する中で勃発する問題やトラブルは、徹頭徹尾、自分事である。論理的に考え、解決策を導き出し、実践し、問題を解決することを否応なしに経験させられる。論理的思考力や問題解決能力が徹底的に鍛えられるのだ。

博士課程とは将来、自立した研究者になるための課程であるといえる。博士号を取得することで「この人は、研究ができる――つまり、論理的思考力も問題解決能力も企画立案能力もあります」という国際的なライセンスが得られる。

海外では、研究職に就いていなくともDr.(ドクター)の肩書を持っていると一目置かれるのはそのためだ。今日の日本では、海外のように博士に対する尊敬がなく、非常に残念なことである。博士号を持っていても就職時にほとんど優遇されず、ただ年齢だけが上になることでかえって採用されにくいという悲しい話も聞く。

ムッツリと研究ばかりしているコミュ障集団が、博士卒の典型と思われているのだろうか。しかし研究はコミュ障の逃げ場ではない。研究する中で培った多くの能力を彼らは身に付けているはずだ。

自身の研究アイデアを向こう数年にまたがるプロジェクトとして立案し、申請書で明瞭に説明しなければ研究資金は獲得できないし、実験で行き詰まれば打開策を考え実行する必要がある。また、論文を書くには他の研究者が納得するよう論理的に考え、表現する力が必要になる。これらの総力戦が研究だ。

博士課程は研究者の育成を目的とした課程だが、研究しかできない人間ができあがるわけではないということがおわかりいただけると思う。そんな能力がある人たちがなぜ歓迎されないのか、私には謎である。何よりも彼らは話していて楽しいし、変だし、面白い。

素敵ではないか。

さらに個人的な経験から言うと、博士課程を含む大学院の5年間は、自身と対峙できた、何物にも代えがたい時間だった。

一般的に、義務教育である小学校・中学校を含めて高校・大学卒業までは、出席日数や単位取得といった「これさえしておけばいい」という枠組みが設定されている。その義務さえ最低限果たしていれば、周囲から責められることもない。

「自分の人生が始まった」選択

今の時代、多くの人が大学卒業までは同じようなレールを進む。しかし、大学を卒業してからはそうではない。法学部の友人は卒業後、一般企業に就職していった。看護学科の友人は卒業してすぐに大学病院で働き始めた。私は、自分で選択して大学院に進んだ。修士1年になったとき、私は、

「自分の人生が始まったんだ」

と思った。これからは、どのように生きるかを自分で決めていくのだと。

人生において選択をするとき、最も大切にすべきは自身の価値観であると思う。しかし、がむしゃらに研究者の道を目指してやってきた私は、子どものときに抱いていた「虫の行動が好き」というレベルから、自身の理解が止まってしまっていた。

私は何を大事にして生きていきたいか、何を大切にして研究していくのか。これからの自分の人生と研究のために、5年の時間をかけてあらゆることを自身と対峙して考える必要があった。今でも考えている。その「考えるべきことを考える時間」を大学院時代が与えてくれた。

私にとって大学院の修士課程2年間+博士課程3年間の5年間は、人生において絶対に必要な時間だった。

大崎 遥花:クチキゴキブリ研究者

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