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おでん屋もやった「銀座寿司幸」創業140年の壮絶 明治から続く寿司の名店が今も繁盛店な理由

東洋経済オンライン / 2024年9月16日 12時0分

その晩は皆で鮑をかじりながら飢えをしのいだという。当時は、お金は銀行に預けるものではなく、タンス預金が普通。そのため、一切のお金が燃えてしまった。それでも命あってのものだね。火事の被害が大きかった浅草方面へ逃げていたら助からなかったはずだから。  

その後、東京都が再開発を始めるのを待たずに銀座通連合会の前身である京新聯合会はただちに銀座復興策を打ち出した。移転するという消極策を禁じ、以前の場所で2階建てのバラックでもよしとし、早々の立て直しをはかった。

こうして銀座の整備が進むも、 料理屋はどこも再興に時間がかかった。その間、関西の料理店が次々と進出してきた。それまでの江戸料理とは違う、洒落た割烹スタイルの店が人気を博した。昭和の初めのことだった。

「寿司幸」も、親戚一同が力を合わせ、無事、新橋に再建することができた。その後復興景気で銀座界隈の町全体が立ち直っていったという。

飲食店でコメを出せなくなったが…

しかし、そうこうしているうちに太平洋戦争の影が忍び寄ってくる。昭和11年の二・二六事件あたりから景気がまた悪化していく。繁華街はまだなんとか軍関係の客で景気は成り立っていたが、昭和14、15年になると、いよいよ働き盛りだった男たちが兵隊にとられ、物資もなくなり、店がたちゆかなくなる。

早めに兵役を終え、一族郎党を引き連れ奈良に疎開していた2代目は終戦後、焼け野原だった東京に戻り、親戚で力を合わせて再び店を始める。当時は食料統制が厳しく、コメは家庭に配布された“お米の通帳”を通してでないと手に入れられず、飲食店で出す(売る)ことはできなかったのだという。

そうした中、客にコメを2合もってきてもらって、それを炊いて出すという仕組みでなんとか店を回していったというから驚く。

魚介の仕入れは、築地よりも先にいち早く整備された鶴見の市場で行った。どの店も自転車の後ろに四角くて深さがあり、くくりつけやすい石油缶をのせて、買い出しにでかけた。帰路、玉川の橋を渡ったところに警官が待っていて、見つかったら魚は没収。というのは闇営業だったから。だから、どの店も時間をずらしたり、道を変えたりのいたちごっこだったという。

その後、料理店の統制は解除されたが、なぜか寿司屋の統制が解けるのが一番遅く、法にのっとって営業できるようになったのは、昭和24〜25年になってからのことだったという。

それまで「寿司幸」では、店の前におでんの鍋をおいて、おでん屋として営業している体を装い、2階で寿司を握っていた。警察の見回り時に、階段下に靴があることが見られると違法営業がバレてしまうので、靴のしまい方にはとにかくうるさかったそうだ。しかしそんな中でも新橋もどんどん人が増えて、商売は右肩上がりだった。

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