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昔を取り戻せたら…光君に募る尼君への「恨み言」 「源氏物語」を角田光代の現代訳で読む・柏木⑦

東洋経済オンライン / 2024年10月13日 17時0分

三月になると、空模様もどことなくうららかで、若君の五十日(いか)(生後五十日)のお祝いをする頃となった。じつに色白でかわいらしく、日数にしてはよく成長し、何か声を上げている。光君は尼宮の元へやってきて、

「気分はもうよくなりましたか。それにしても、なんとも張り合いのないことです。ふつうのお姿で、こうして元気になられた様子を拝見するのだったらどんなにうれしかったでしょうか。情けないことに、私をお見捨てになって……」と涙ぐんで恨み言を口にする。光君は毎日のようにやってきて、今のほうが逆に、この上なくたいせつに尼宮を扱うのである。

真相を知らない者たち

五十日のお祝いに、赤ん坊の口に餅を含ませる儀式があるのだが、母宮がふつうとは異なる尼姿なので、女房たちが「お祝いの席に、どうしたものでしょう」などと言い合っていると、光君がやってきて、

「いいではないか。この子が母宮と同じ女の子だったなら縁起も悪いだろうが、男の子なのだし」と寝殿の南正面に若君のちいさな御座所(おましどころ)をしつらえて、餅を持ってこさせる。乳母(めのと)がたいそうはなやかに着飾って、若君の前に並ぶ膳は、彩りを尽くした籠物(こもの)(果物を入れた籠)や檜破籠(ひわりご)(檜の薄板で作った折り箱)などの趣向をこらした品々を、御簾(みす)の内にも外にも並べて、若君出生の真相を知らない女房たちが無邪気にお祝いしているのを見ると、光君はひどく苦しく、とても見ていられない、と思ってしまう。

尼宮も起きて座っているが、髪の裾がいっぱいに広がっているのをひどくうるさがって、額髪を撫でつけていると、几帳をずらして光君が座る。いたたまれずに背を向ける尼宮は、いっそうちいさく痩せてしまって、髪は惜しんで長めに切ったので、尼削ぎとはいえ後ろ姿はふつうの人と違うようには見えない。次々に重なって見える鈍色(にびいろ)の袿(うちき)に、今様色(いまよういろ)の表着を着た、まだ馴れない尼姿の横顔は、かえってかわいらしい少女のような感じで、優雅でうつくしい。

「もうこれきりと私を見限るのなら」

「ああ、なんて情けない。墨染(すみぞめ)というものは本当に嫌な、悲しい気持ちになる色だ。こうして尼姿になられても、この先もずっとお目に掛かることはできると自分をなぐさめてみるが、いつまでもやりきれない気持ちで涙が出てしまうのもみっともない。こうして見捨てられた自分が悪いのだと思ってみても、あれこれと胸が痛むし、残念でならない。昔を取り戻せないものだろうか」と光君は嘆息し、「もうこれきりと私を見限るのでしたら、真実、本心から私を嫌になって捨てたのだと、顔向けもできず情けなくてたまらない思いです。やはり、この私をかわいそうにと思ってください」と言う。

「こうして尼となった者は、この世の情けとは縁のないものと聞いていましたが、まして私はもともと情けというものをわかっていなかったのですから、どう申し上げることができましょう」と尼宮。

「張り合いのないことを言いますね。よくおわかりの情けもあるでしょうに」とだけ言って言葉を切り、ただ若君を見つめている。

次の話を読む:10月20日14時配信予定

*小見出しなどはWeb掲載のために加えたものです

角田 光代:小説家

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