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「一条天皇の願いもド忘れ」道長の意外すぎる一面 強気に見える道長も、いろんなミスをしていた

東洋経済オンライン / 2024年10月19日 9時40分

京都御所(写真: でじたるらぶ / PIXTA)

今年の大河ドラマ『光る君へ』は、紫式部が主人公。主役を吉高由里子さんが務めています。今回は権力を誇った藤原道長の意外な一面を紹介します。

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有名な歌の一方で…

「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の かけたることも なしと思へば」。1018年に藤原道長が詠んだ有名な歌です。

【写真】道長は一条天皇の最期の願いすらド忘れ…。写真は一条天皇陵

「この世は私のためにあるように思う。今夜の満月のように、私に欠ける部分は何一つないと思う」という意味です。栄華を極める道長の、傲慢で、強気な一面が感じられる歌として、教科書でもよく取り上げられてきました。

道長は娘の彰子、妍子、威子を立后させ、「三后の父」となったのですから、このような歌を詠んでもおかしくはないのです。しかし、この歌を詠んだことで、道長には前述のようなイメージがついてしまったように思われます。

実際は必ずしもそうした面ばかりではありません。弱気になったり、愚痴をこぼすこともありました。

例えば、道長はたびたび病に苦しみますが、1000年に重病となったときには、まだ幼い息子の田鶴(後の関白・藤原頼通)のことを「必ず心に留めてくだされ」と藤原行成(蔵人頭。後に権大納言。三蹟の1人であり能書家として有名)に頼み込んだりしています。

時代は異なりますが、死を前にした天下人・豊臣秀吉が幼少の子息・秀頼の行く末を案じ、徳川家康ら「五大老」に秀頼を盛り立ててくれと頼んだことを想起させます。

道長は「私は元来、怠惰な愚者です。朝廷の政務を乱すことも多かった。今は、病が重くなっている。官職を去り、出家しようと思っています」と述べています。

病で弱気になったということもあるのでしょうが、とても後ろ向きで、自己肯定感が低いようにも見受けられます。

いや、それはたまたま病のときだったからでしょう、普段はグイグイと政権運営をしていたに違いないと思う人もいるかもしれません。

普段から強気な政権運営ではなかった?

ところが、道長は普段から、強引な政権運営はしていなかったのです。

村上天皇の御代の960年に、内裏が焼失します。焼け跡から「神鏡」が掘り出されましたが、1005年に再び火災に見舞われ、神鏡は損傷してしまいます。神鏡の本来の姿が失われてしまうまでになってしまいました。

この神鏡を改鋳(鋳造し直すこと)するかどうか、1006年に「神鏡定」が行われることになりました。

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