道ならぬ恋に心を乱し、身を滅ぼしていいものか 「源氏物語」を角田光代の現代訳で読む・柏木⑧
東洋経済オンライン / 2024年10月20日 16時0分
この秘密を知っている人が、女房の中にもいるのだろう。誰が知っているのかわからないのがくやしい。きっと私のことをまぬけだと思っているだろう、と思うと穏やかならぬ気持ちだが、いや、この私がもの笑いになるのなら我慢もしよう、どちらかというならば尼宮の立場のほうが気の毒だ、と思い、おくびにも出さずにいる。若君がいかにも無心に声を上げて笑っている、その目元や口元のかわいらしいのを見ても、事情を知らない人はどうかわからないけれど、やはり督の君にひどく似ている、と思うのである。督の君の両親が、せめて形見となる子どもでも残していってくれればと泣いているのに、彼らに会わせることもできず、人知れず、こんなにはかない形見だけを残して、あんなに気位の高い立派な人物だったのに、みずから身を滅ぼしてしまったのか……、と痛ましく、また惜しくも思えて、憎む気持ちも消えてしまって、つい泣いてしまうのだった。
まさか平静でいられるはずはない
女房たちがそっとその場を離れた時に、光君は尼宮のそばに寄り、「この若君をどう思うのですか。こんなにかわいい人を捨ててまで出家しなければならなかったのでしょうか。ああ、情けない」と声をかけると、尼宮は顔を赤らめている。
「誰(た)が世にか種(たね)はまきしと人問はばいかが岩根(いはね)の松はこたへむ
(いったいだれが種をまいたのかと人に訊かれたら、岩の上に生まれ育った松──若君はなんと答えるだろう)
かわいそうに」と光君が小声で言うと、尼宮は返事をすることもなくうつ臥してしまう。無理もないと思う光君は、それ以上しいて言うことはない。いったいどう思っているのだろう、ものごとを深く考えるような人ではないが、まさか平静でいられるはずはない、と尼宮の心の内を思うにつけ、いたわしくなる。
大将の君は、督の君が思いあまって、それとなく口にしたことを、「いったい何があったのだろう、もう少し意識がしっかりしている時だったら、あんなふうに言い出したことなのだから、もっとよく事情はわかったかもしれないのに……。どうにもならない臨終の間際で、じつに折悪く、なんだか気掛かりなまま、悲しいことになってしまった……」と、面影を忘れることができず、兄弟の君たちよりも無性に悲しく思っている。「姫宮がああして出家なさったことも、そうひどいご病気というわけでもなかったのに、よくぞきっぱりとご決心なさったものだ、それにしても父院(光君)がお許しになっていいことなのか……、二条の上(紫の上)があれほどに危篤状態で、泣く泣く出家をお願いなさったと聞いたけれど、父院はとんでもないことだとお思いで、結局こうしてお引き留めになったというのに……」などと、あれこれ思案をめぐらせて、「やはり前々から、督の君には姫宮を思う気持ちがあって、それがときどきこらえきれなかったのだろう。うわべはひどく冷静で、ほかのだれよりも思いやりがあり、穏やかで、この人はいったい心の内ではどう思っているのだろうと、はたの人も気詰まりなくらいだったけれど、少し弱いところがあって、やさしすぎたのがいけなかったのだろう。どんなにつらい思いをしても、道ならぬ恋に心を乱して、こんなふうに命に代えていいはずがない。相手のためにも気の毒だし、それに自分の身まで滅ぼしていいものか。そうなるべき前世からの因縁とはいうが、まったく軽々しい、つまらないことではないか」などと、ひとり胸の内であれこれ思っているけれど、妻(雲居雁(くもいのかり))にもそれを漏らしたりはしない。また適当な機会もなく、光君にも話せないままでいる。とはいえ、「こんなことを督の君がほのめかしていました」と光君に話してみて、顔色を見てみたくもあるのだった。
涙の涸れる時なく悲嘆にくれて
督の君の父大臣、母北の方は、涙の涸(か)れる時なく悲嘆にくれて、はかなく過ぎていく日々を数えることもなく、法事の法服、装束、そのほかあれこれの支度も、弟の君たちや姉妹たちがそれぞれに調えている。お経や仏像の飾りなどの指図も、督の君の弟である右大弁の君にさせるのだった。七日目ごとの誦経(ずきょう)についても、ほかの人が注意を促すと、「私の耳に入れるな。こんなにもつらいと親の私が悲しんでいては、かえって成仏の妨げとなってしまう」と、死人のように虚(うつ)けている。
次の話を読む:10月27日14時配信予定
*小見出しなどはWeb掲載のために加えたものです
角田 光代:小説家
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