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首都の通勤線「廃止」フィリピン国鉄の残念な現状 政府に見放され、新路線建設へ用地明け渡し

東洋経済オンライン / 2024年10月22日 6時30分

マニラ首都圏とは思えないほどのどかな光景を行く通勤列車。車両は2011年から導入された元常磐線各駅停車の203系電車がアメリカGE製の機関車に牽引され客車として使用されていた(筆者撮影)

これが本当の「攻めの廃線」かもしれない。フィリピン国鉄(PNR)の在来線、マニラ首都圏および近郊区間にあたるトゥトゥバン―アラバン間・約28kmが今年3月27日、営業運転を終えた。

【写真を見る】元常磐線各駅停車の203系はアメリカGE製の機関車に牽引され客車として使用。マニラ首都圏とは思えないほどのどかな光景を行く「通勤列車」

これは、JICA(国際協力機構)とADB(アジア開発銀行)の協調融資によって建設の進む「南北通勤鉄道延伸事業」(約112.7km)のうち、南側区間にあたるソリス―カランバ間(約56km)の工事を加速させるためのものだ。運行の終了後は、レールなどの撤去が急ピッチで進んだ。PNR在来線のアラバンより南、カランバまでの区間は2023年に先行して運行を取りやめている。

新線はマニラ版「つくばエクスプレス」?

この通勤鉄道延伸事業は、すでに着工済の「南北通勤鉄道事業」(マロロス―トゥトゥバン間・約37.7km)と合わせ、PNRの在来線用地を流用して高架線を建設する。

【写真】まるでローカル線のような「首都の通勤路線」を走る元常磐線の203系や朽ちたキハ52形気動車。駅には対照的な最新鋭の「南北通勤鉄道」をPRするディスプレイが

両事業が完成すると、クラーク国際空港からカランバまでを結ぶ全長約147kmもの通勤新線「南北通勤鉄道」(NSCR)となる。10月16日には、JR東日本がフランス・パリ交通公団の子会社、RATP Devと同事業の運行・維持管理事業への共同入札に向けた覚書を締結したと発表した。

非電化・狭軌の在来線に対し、電化・標準軌を採用するNSCRは設計最高時速160kmで、あたかもフィリピン版「つくばエクスプレス」といった様相だ。専用車両を用いた空港アクセス特急のほか、一般型車両でも優等列車が設定される予定で、現在は車で4~5時間かかっている同区間を100分程度で結ぶ計画だ。

既存の鉄道をすべて作り変えるという世紀の巨大プロジェクトである一方、NSCRはPNRの用地を活用するため、PNRの所有となるという点に一抹の不安を覚えるのも事実である。

フィリピンの鉄道(現在のPNR)は第2次世界大戦前、首都マニラを擁するルソン島内に1000km以上もの路線網を展開していたが、戦後、とくに1970年代以降は衰退の一途をたどった。マニラより北側の区間(北方線)のほとんどが1990年代初めまでに廃止され、存続しているのは南側の区間(南方線)470kmほどとなっていた。

それも、線路自体は島南部までつながっているものの、運行は流動的で、本来なら国鉄の本分ともいえる都市間輸送はほぼ行われていなかった。貨物輸送も長らく途絶えており、わずかに走る旅客列車も朝夕に1~2往復走る程度で、運行ダイヤは当日の朝にSNS上で告知されるという状況だった。

唯一、最低限満足のいくレベルといえたのは、今年3月に運行を中止したマニラ近郊区間で、近年は朝夕に30分おき、日中は1時間おきという本数を確保していた。

とはいえ、実態は都心のローカル線という雰囲気だ。高速道路と住宅に挟まれたわずかな隙間に延びる、草生したへろへろのレールを時速40km前後で申し訳なさそうに走る姿は、国鉄の幹線であるとは到底思えない。逆に、バラストも見えないような泥に埋もれたレールがはるか400km以上先のレガスピまで伸びていることに驚きを隠せなかった。

政府に見放された国鉄

東南アジアで初の都市鉄道を1984年に開業させているフィリピン(2024年5月30日付記事『阪急が参画表明、日本と「マニラ都市鉄道」の40年』参照)だが、PNRはずっと置き去りにされてきた過去がある。これには、度重なる火山噴火や台風といった自然災害が多く、予算をかけて復旧させても再び運休に追い込まれるというフィリピン特有の事情もある。

例えば、マニラと南部を結ぶ「ビコールエクスプレス」は、直近では2011年に1日1往復の運転を再開したが、大雨による橋梁の損傷でわずか1年ほどで運転休止に追い込まれた。その後、ローカル列車として一部区間の運行再開はあったものの、マニラ首都圏側の営業が中止され、レールも剥がされてしまった。今後、マニラから1本のレールで最南部までつながる日は二度と訪れない可能性もある。

しかし、災害が多発するという事情はあるものの、PNRの安定した運営が阻害されている根本的な理由は、フィリピン政府がPNRに対して適正な予算配分を怠ってきたということに尽きる。

政府が意図的にPNRを縮小方向に誘導しているという典型的な事例が、起点であるマニラのトゥトゥバン駅である。かつては一国の玄関口にふさわしい荘厳なターミナル駅だったが、土地を民間デベロッパーに貸与する形で1994年にショッピングセンターに姿を変えた。

現在の駅は旧駅よりも500mほど北側に位置している。PNR本社ビルを併設しているため立派に見えるが、ホームの長さは3~4両分ほどしかなく、日本でいえば地方私鉄の始発駅と言ったほうがしっくりくるほどだ。都心部ではPNR用地が高速道路建設に流用され、複線だった線路が単線に戻されてしまった箇所すらある。

脱線など重大事故も頻発しており、改善の兆しは見られない。予算が付かず設備の維持管理はストップし、乗客は離れ、賃金は上がらず職員の士気が低下、そして職場が荒廃するという典型的な悪循環に陥っている。結果的にPNRの鉄道マネジメント、オペレーション能力は欠如し、もはや政府としても打つ手なしといった面もあろう。

その一方で、政府は民間資金も活用しつつ高速道路などの道路整備を積極的に進めた。都市間輸送では、所要時間や快適性などどれをとっても、PNRはバス、そしてマイカーに勝ち目なしという状況にある。旧宗主国アメリカの影響を多分に受けているとも言われるが、後発開発途上国(LDC)と呼ばれるようなミャンマーやバングラデシュですら、国鉄が国の大動脈として機能していることを考えれば、PNRが置かれた状況は異常と言わざるをえない。

日本の「ハコモノ支援」は成果なく

実は、かつて日本はPNRのリハビリに力を入れていた。在来線の活性化は戦後すぐの時期から日本が中心となって進めており、1974年からは海外経済協力基金(OECF:当時)による円借款にて、日本製の気動車を「国鉄通勤輸送強化事業」で30両、「国鉄通勤輸送強化事業(2)」で35両導入した。

戦後賠償の時代から数えると、日本の支援による客車の導入は181両、気動車は169両に及び、旅客車両のほぼすべてが日本製だった(機関車はほとんどがアメリカ製)。その後、1983年には「国鉄車両検修基地建設事業」、1989年に「国鉄南線活性化事業」、さらに1991年に「国鉄通勤南線活性化事業」として、検修基地、軌道、橋梁の改修を中心としたインフラ側への支援も続いた。

しかし、当時の日本の開発援助はハコモノ支援に特化しており、鉄道オペレーションに必須のメンテナンス教育やマネジメント人材の育成が行われなかった。とくにその頃の途上国輸出向けの車両は「安かろう悪かろう」と言われ、気動車は非力でメンテナンスが難しい戦前設計のエンジンを搭載していた。過酷な運用、整備不良も追い打ちをかけ、導入後5~10年でほとんどの車両が使えなくなった。

1980年の報告書は、当時現存していた127両の気動車(「国鉄通勤輸送強化事業(2)」で導入されたばかりの35両はカウントせず)のうち、稼働可能な最低限度の機能を維持している車両はわずか27両しかなかったと言及している。そのほかは、廃車同然までに荒廃していた模様である。

また、別の報告書では「現場でさえ何両稼働できるか確実に把握しておらず、聞く人によって答えが違ったという有様だった」とまで言われており、マネジメントがまったく行われていなかったことがうかがい知れる。

この状況を受けて、1979年に「フィリピン国鉄ディーゼル動車保守体制改善指導」が技術協力プロジェクトとして実施されているが、残念ながら目立つ成果は現れず、ODAで導入された日本製車両は1990年代までにほぼ使えなくなり、大規模な路線廃止とともにPNRは瀕死の状態に至った。

一方で、同時期に導入されていたアメリカGE製の機関車は、メンテナンスが容易かつ過酷な使用環境でも耐えられる設計であるため、ある程度の稼働率を維持しており、「国鉄南線活性化事業」でも円借款ながらGE製の機関車が導入された。これらは現在でも主力として活躍している。PNRは車両不足解消のため、2000~2003年にかけて独自に日本から中古の12系・14系客車を導入し、GE製機関車で牽引していたが、これらはすぐに荒廃してしまった。

近代化で利用者は増えたが…

マニラ首都圏では2008~2009年にかけ、韓国からの融資による軌道の改良、複線化、高床ホームの整備、冷房付き気動車の導入が行われた。同時に線路際に連なっていたスラム街も一掃された。

フィリピン政府側の予算の都合か、当初計画通りには完結せず、複線化はアラバンの1駅前でストップし、気動車も11編成導入の予定が6編成にとどまった。それでも列車運行本数は大幅に増加し、1日5往復以下だったのが20往復ほどまでに成長した。

また、2011~2012年にかけて、日本から元常磐線各駅停車の電車である203系などまとまった数の中古車両が無償譲渡された。203系は収容力が高く、冷房付きで腐食に強いアルミ車体ということもあり、輸送環境は幾分か向上した。車内の治安、秩序も向上し、ある程度は安心して利用できるようになった。

実際、2008年にはおよそ100万人だった年間利用者数は、2010年には約900万人、2014年には2000万人を超えるまでに急増した。

一方でラッシュ時の混雑が深刻化する中、韓国製気動車の稼働率は半数以下に減少、203系も冷房故障やその他のトラブルで使えない車両が増え、輸送力は頭打ちの状態だった。PNRは輸送改善策として、2018~2020年にインドネシアの車両メーカー・INKAから気動車、機関車、客車を導入。203系の冷房装置もINKA製に換装した。

このように、なんとか運行を維持するべく独自の努力を続けていた中、首都圏区間の運行は3月で終了してしまった。

運行終了にあたって利用者からの反発はほとんど見られず、ひっそりと最終運行を終えた。2023年末頃から段階的に運行本数を減らし、ラッシュ時でも1時間以上間隔が開き、日中運行はほぼ取りやめていたのが効いているともいえるが、運行終了の当日まで通勤、通学、買い物と市民の足として利用されていたものの、なければないで困らない程度の路線に凋落していたことがわかる。

営業を終了したPNR在来線はNSCRの完成後、空いた用地に再敷設する計画もあるが、現時点では何も決まっていない。

日本の「技術協力」は実を結ぶか

筆者は以前、「国鉄車両検修基地建設事業」で建設されたカローカン工場を訪れたことがある。廃墟のような薄暗い工場内に、廃車体と取り外されたエンジンなどのパーツが並んでいるばかりで、本来実施されるべきヘビーメンテナンスが実施されている気配すらなかった。

この工場もNSCRの開業で接続する線路がなくなるため、閉鎖、解体され、用地はNSCR建設に供される。円借款で活性化が図られたはずの南方線も、マニラ寄りの区間はレールを剥がされたわけで、いったい何のためのODAだったのか、再検証する必要があるだろう。

フィリピン政府側からの要請があってこその借款契約であり、最大の問題はフィリピン側に鉄道を生かす意思がなかったという点であろう。しかし、日本の開発援助は「自転車の補助輪を外す作業」と例えられることがある。この結果からすると、日本側にも責任があるといえる。

さて、NSCRはPNRの所有にはなるが、運輸省は運営を民間会社に委託することも予定している。冒頭のJR東日本の動きも、これをにらんだものである。現状のPNRには任せられないというのは正直なところだろう。しかし、前述の通り大規模な新線であるNSCRを満足にオペレーションするには、相当数の高度な鉄道人材が必要で、単に民間会社に丸投げすれば解決という話ではない。

この点、NSCRに関わるインフラ側の2つの事業と並行して、JICAの技術協力「フィリピン鉄道訓練センター設立・運営能力強化支援プロジェクト」が進行中だ。過去と同じ轍を踏まないためにも、これは非常に重要なプロジェクトである。この件に関しては、また稿を改めて紹介したい。

高木 聡:アジアン鉄道ライター

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