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道長が退位させた「三条天皇」愛を貫く意外な素顔 次々に後ろ盾を失った三条天皇を支えた相手

東洋経済オンライン / 2024年11月10日 9時30分

寛和2(986)年6月23日、花山天皇の退位によって一条天皇が7歳で即位すると、兼家が摂政となり、7月16日に居貞親王が11歳で皇太子となった。その日の午前中に、居貞親王は兼家の東三条邸にて元服の儀を迎えている。

一条天皇は、父の円融天皇と母の藤原詮子が不仲だったため、父とあまり会えず、兄弟姉妹もいなかった。それに比べて、居貞親王には弟として、第3皇子の為尊親王、第4皇子の敦道親王がおり、兼家としても今後に期待していたのだろう。永延元(987)年、兼家は三女で14歳の綏子(すいし)を東宮妃として、居貞親王のもとに入内させている。

居貞親王と綏子との間にいつか皇子が生まれれば……と兼家はさらに盤石な体制をもくろんだが、自身の寿命が近づいていた。それから3年後の正暦元(990)年、ようやく一条天皇が11歳で元服し、居貞親王が15歳となる年に、兼家はこの世を去ってしまう。

母に続いて、祖父まで亡くした居貞親王は、綏子との関係もうまくいかなくなり、正暦2(991)年に新たに妃を迎えている。それが長年、居貞親王を支え続ける藤原娍子である。

娍子の父・済時は藤原師尹の次男で、大納言兼左大将だった。家柄や地位という面では、注目するに値しなかったが、それでも居貞親王が4歳年上の娍子を熱望したという。

実は、かつて花山天皇が娍子に入内を求めたが、娍子の父が固辞したという経緯があった。色好みとして知られた花山天皇に選ばれるだけあり、娍子は美女だったといわれている。

その後、長徳元(995)年には、藤原道隆の次女・原子が入内し、居貞親王の新たな妃となるが、すぐに道隆は死去。兄の伊周や隆家も失脚し、姉の定子も亡くなってしまう。子をもうけることもないまま、原子は22歳の若さで死去している。

娍子を寵愛し続けた三条天皇

一条天皇の治世が非常に長く続くなかで、居貞親王は皇太子として25年も過ごすことになる。不遇な時代ではあったが、その間、後見の弱い娍子を寵愛し、4男2女をもうけたことを思えば、家庭の幸せには満ちていたのではないだろうか。「男は妻がらなり」と妻の家格に重きを置いた道長とは、また違う価値観が三条天皇にはあったのだろう。

一条天皇の病が重くなると、寛弘8(1011)年6月13日、居貞親王は36歳にしてようやく三条天皇として即位する。

だが、約4カ月後の10月24日には、父の冷泉院が崩御。すでに弟の為尊親王は長保4(1002)年に26歳で病死し、もう一人の弟・敦道親王も寛弘4(1007)年に27歳の若さで死去している。

父の死によって、いよいよ親族がみな亡くなった三条天皇。心の支えは娍子と、その子どもたちだった。

道長の次女・妍子を中宮とした三条天皇が、そのあとすぐに長年連れ添った妻・娍子も強引に皇后としたのは、父の死から数カ月後のことであった。

【参考文献】
山本利達校注『新潮日本古典集成〈新装版〉 紫式部日記 紫式部集』(新潮社)
『藤原道長「御堂関白記」全現代語訳』(倉本一宏訳、講談社学術文庫)
『藤原行成「権記」全現代語訳』(倉本一宏訳、講談社学術文庫)
倉本一宏編『現代語訳 小右記』(吉川弘文館)
今井源衛『紫式部』(吉川弘文館)
倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社現代新書)
関幸彦『藤原道長と紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』 (朝日新書)
倉本一宏『三条天皇―心にもあらでうき世に長らへば』 (ミネルヴァ日本評伝選)
真山知幸『偉人名言迷言事典』(笠間書院)

真山 知幸:著述家

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