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祟りが原因?道長が重い病に苦しみ続けた背景 三条天皇は無礼を働いたと不満を漏らすことも

東洋経済オンライン / 2024年11月16日 7時40分

今回の道長の病の背景にはそうした出来事がありました。道長は、この見立てに納得できなかったようで、慶円と論争したようです。論争できるくらいなので、この頃には道長の病も少しはよくなっていたのかもしれません。ただ、論争があったことで、慶円は修法(加持祈祷)を行うことなく、帰ってしまいます。

道長の病を喜んだ公卿も?

それからしばらくして、道長は藤原実資を召し「病が身を攻め立てるが、この期に及び思うところはない。命も惜しくはない。ただ、三宮(皇太后の彰子。中宮の妍子。皇太子の敦成親王)のこと、特に皇太后(彰子)のことを思うと心痛だ」と涙ながらに述べたといいます。

6月20日頃には、道長の重病を喜んでいる公卿がいて、それは藤原道綱・隆家・実資・懐平・通任の5人だとの噂が流れました。思わぬところで、名前が上がった藤原実資ですが「運を天に任すしかない」と堂々としていたようです。

藤原娍子(三条天皇の皇后)の立后に参列したことから、このような噂を立てられたのであろうかと、実資は推測していますが、噂を立てられて迷惑であったことは間違いありません。

この噂について、道長からは「信用していない」との知らせが実資のもとに届くことになります。重病の道長も7月には日記を付ける力が出てきて、だんだんと回復しました。ちなみに、同じ頃に三条天皇も病(風邪)で体調を崩していました。

さて、1013年8月、藤原実資は日記『小右記』に「公の事がある日に、私事を専らにする。このようなことが近頃、顕著になっている」と書きつづりました。

宮中の年中行事(公事)がある日(8月16日)に、道長の子・頼通が法性寺に行くこと(私事)を計画し、多くの公卿がそれに加わりました。実資はそのことを批判しているのです。

道長の一家がそのようなことをしたのは、恐れ多くも、三条天皇への嫌がらせだったのかもしれません。嫌がらせをして、三条天皇に早く退位してもらい、外孫の敦成親王を即位させたい。道長らにはそうした想いがあったので「私事」を優先したのでしょう(もしくは、ただの怠慢・わがままかもしれません)。

三条天皇と道長は常に対立していた訳ではない

1014年4月、道長は針を踏んだことが原因で、歩行が困難となります。参内することもかなわず、毎夜、悩み苦しんだようです。瘧(高熱が繰り返えされる病)のような症状もあったとのこと。このことから、道長は病は祟りではないかと疑っていたようです。 

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