子供の出世にも差「道長の2人の妻」の大きな格差【再配信】 倫子と明子、それぞれが道長と結ばれた経緯
東洋経済オンライン / 2024年12月11日 12時0分
さて、結婚前後の道長は2つの災難に遭っていました。987年4月、道長は、車で、義兄(道長の異腹の兄)の道綱と賀茂祭に出かけていました。ところが道長が、見物中の右大臣・藤原為光の車の前を通ったときに、為光の従者たちから石を投げられます。
道長と道綱はこの出来事を、父・兼家に訴えます。事態はどう動くのかと思われていた矢先に、為光の家司が詫び状を送りました。そして、為光も兼家の邸に向かいます。ところが、為光は兼家とは対面できなかったようです。為光は、摂政・兼家の威光そして後難を恐れたことでしょう。
988年12月には、道長に再び災難が襲います。なんと兼家から勘当されてしまうのです。賀茂臨時祭の予行演習で、道長の従者らが舞楽の奉仕者を捕えたのが、その理由でした。
『小右記』には「勇敢な従者らを放ち」とありますが、なぜ道長がそんなことをしたのかはわかりません。しかし、それが理由で、道長は父・兼家から「勘当」されてしまうのでした。
災難続きのように見えますが、もちろんいいこともありました。
988年に、道長の妻・倫子が娘を生んだのです。この娘は彰子、後に一条天皇の皇后になられます。
さらに、道長にとってもう1つのうれしい出来事がありました。新たな妻を得たのです。
『大鏡』に「道長には北の方が2人おられます」とあるように、道長には正式な妻が2人いました。1人は源倫子。もう1人が、源明子です。
明子の父は、源高明です。源高明は醍醐天皇の皇子でしたが、源姓を与えられて臣籍に下ります。そして、権中納言・中納言・大納言・右大臣・左大臣と昇進していくのです。
ところが、そんな源高明に不幸が訪れます。969年、「安和の変」の勃発です。
源高明の娘は、為平親王の妃でしたが、藤原氏が「高明らが為平親王を擁立して、皇太子・守平親王 (後の円融天皇)の廃立を企んでいる」として、源高明らを中央政界から追放した事件です。
これにより、源高明は、太宰府に左遷されます。廃太子の陰謀があると密告したのは、源満仲でした。源満仲は、清和天皇の曾孫に当たります。摂津多田荘(兵庫県)を本拠とし、多田源氏の祖となる人物です。
安和の変には、平将門の追討で功績があった藤原秀郷の子・千晴も連座しています(千晴は隠岐に配流)。
源満仲は最初、源高明らの一派であったものの、変心し、密告したとも言われています。源高明は3年後に許されて、都に帰ることはできましたが、政界復帰は叶わず、983年に亡くなります。
道長の妻である倫子と明子の格差
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