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老い先短い男がこの世に残していた、唯一の未練 「源氏物語」を角田光代の現代訳で読む・橋姫⑥

東洋経済オンライン / 2024年12月29日 14時0分

「俗世間の色にも香にもすっかり未練を捨ててしまってからは、昔聞き覚えたこともすべて忘れてしまいました」と言いながらも、八の宮は女房を呼んで琴(きん(七絃の琴))を持ってこさせ、

「今の私にはまったく不釣り合いになりましたね。先に弾いてくださるのならそのあとから思い出せるかもしれません」と琵琶も持ってこさせて中将に勧める。中将は琵琶を手にして調子を合わせる。

「このあいだ私がほのかにお聴きしたものと同じ楽器だとはとても思えません。あの時は楽器自体の響きがいいのだろうとばかり思っていましたが」と、中将は気やすく弾こうとはしない。八の宮が、

「まあ、お人が悪い。そんなふうにお耳に留まるような弾きかたなど、いったいどこからこんな山里に伝わってくるでしょう。とんでもないお言葉です」と、琴(きん)を搔き鳴らす。その音色はじつに切々と心に染み入る。ひとつには、峰を渡る松風が引き立たせているのだろう。八の宮は、ひどくたどたどしく、忘れたふりをして、風情のある一曲ほど弾き、それでやめてしまった。

「こちらで、どうしたわけか、ときおりわずかに耳にする娘たちの箏(そう)の琴(こと)の音は、会得しているのかなと聞こえる時もありますが、気に留めて聴いてやることもないまま長い年月を過ごしてしまいました。あの娘たちは思い思いに、それぞれ搔き鳴らしているようですから、川波ぐらいが調子を合わせてくれているのでしょう。もとより、ものになるほどの拍子などもとれまいと思いますよ」と言い、姫君たちのいる奥のほうに、「搔き鳴らしてごらんなさい」と勧める。けれども姫君たちは、まさかだれかが聴いているなどと思いもせずに弾いていたのを、中将に聴かれていたのも恥ずかしいのに、この上搔き鳴らすなどとんでもない、とめいめい奥に入ってしまい、聞き入れようとしない。八の宮は幾度も勧めてみるけれど、あれこれと断って終わってしまったようなので、中将はじつに残念に思うのだった。

いかにもこの世を離れる時の絆

このような折にも、こうして奇妙なほど世間離れした様子で暮らしている姫君たちの不本意な境遇を、八の宮は恥ずかしく思っている。

「娘がいることをなんとか世間には知られまいと思って今まで育ててきましたが、私の命も今日明日も知れぬほど残り少なくなり、さすがにまだ生い先の長い二人は落ちぶれて路頭に迷うのではないかと思うと、そればかりが、いかにもこの世を離れる時の絆(ほだし)なのです」と話すのを、中将はいたわしく思いながら聞いている。

「正式な後見(うしろみ)というような、しっかりした形ではなくても、どうぞ他人行儀ではなく考えていただきたいと思います。この私がしばらくでも生き長らえているあいだは、一言でもこうしてお約束したからには、それを守るつもりです」と中将が言うので、「まことにうれしいこと」と八の宮は思い、言葉にもする。

次の話を読む:12月29日14時配信予定

*小見出しなどはWeb掲載のために加えたものです

角田 光代:小説家

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