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大河「光る君へ」で描かれた"道長の死"のその後 摂関政治が終焉を迎え、院政の時代へと突入

東洋経済オンライン / 2024年12月29日 8時20分

そんな後朱雀天皇の第2皇子として生まれたのが、後三条天皇である。後朱雀天皇から第1皇子の後冷泉天皇へと皇位が引き継がれるも44歳で死去したため、弟である後三条天皇が即位することとなった。

即位時に後三条天皇はすでに35歳になっていた。12歳で皇太子となっていたため、実に20年以上、東宮だったことになる。後三条天皇の即位を邪魔し続けた男がいたからだと思われる。その男とは、関白の藤原頼通である。

後三条天皇の即位を邪魔した関白の頼通

なぜ、頼通と後三条天皇の関係性は悪かったのか。

後三条天皇の母は誰かというと、三条天皇の第3皇女で、後朱雀天皇の皇后・禎子内親王だ。この禎子内親王は、三条天皇と道長の次女・妍子との間に生まれた娘である。

かつて道長は一条天皇のもとに彰子を送り込んで孫の敦成親王を即位させたように、三条天皇には次女の妍子を送り込んでいた。何かと対立することが多かった道長と三条天皇だが、妍子が懐妊したときには、関係性が改善したようだ。それでも、子どもが皇子ではなく皇女とわかると、道長は途端に冷淡な態度をとったという。

つまり、禎子内親王からすれば、道長は母方の祖父にあたると同時に、父・三条天皇を退位に追いやり、兄の敦明親王に皇太子の辞退という悲運をもたらした人物でもある。しかも、自身の誕生を喜ばなかったのだから、おそらく母から道長についてよい話を聞いていないだろう。

不仲だった道長と三条天皇との関係性が引き継がれるかのように、道長の息子で摂政の頼通もまた、後三条天皇との関係性は悪かった。頼通は、後冷泉天皇が即位すると、のちに後三条天皇となる尊仁が皇太子になることのないように、出家させるように働きかけていたという。出家工作が実らずに尊仁が東宮になると、慣例であるはずの宝剣の授与を行わないなど、冷遇を決め込んだ。

そんな頼通の嫌がらせにも負けずに、20年もの皇太子の時代を経て、治暦4(1068)年に即位した後三条天皇。形としては「両親ともに道長の孫」ということになるが、後三条天皇は摂関家とは距離を置き、自身の力で政治を切り拓くことになる。

摂関政治から院政の時代へ

のちに後三条天皇となる尊仁が、頼通の陰謀によって出家させられそうになったとき、全力で阻止した人物がいる。頼通の異母弟である頼宗や能信だ。

道長は源倫子と結婚してすぐに、源明子を2番目の妻としたが、その源明子の子どもたちは、後三条天皇をバックアップすることとなった。

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