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焼け野原だった「歌舞伎町」が大歓楽街になるまで 「喫茶店→テレクラ→ホストクラブ」街の顔の変遷

東洋経済オンライン / 2025年1月25日 9時40分

だが、当時は日本橋、銀座、上野、浅草などが東京の伝統的で代表的な盛り場。新宿はあくまでも新興であり、場末と見られていた。

その新宿が、今日のような地位を獲得したのは、昭和の高度経済成長期以降のことだ。

1960年代半ばから若者の街となった新宿で生まれたアートやカルチャーは、時代を象徴するものになり、1970年代に入ると西新宿に超高層ビル街が建設され、就労人口が増えたことで、他を圧倒する規模と存在感を持つ街となった。

戦後復興を牽引した歌舞伎町

戦後、空襲で被災し焼け跡と化した新宿駅東口側の街を、さらに拡大・発展させたのは歌舞伎町だった。

1983年の歌舞伎町一番街の写真を見ると、この時期の歌舞伎町でどんな店が流行っていたかがわかる。「のぞき部屋」「男性専科」など風俗街的な店のほか、当時は今よりも盛んだった麻雀店の看板も見える。

演劇、映画と飲食の街として発展した歌舞伎町が風俗街化したのは、昭和32年の売春防止法施行後だとされる。隣りあう新宿ゴールデン街は、非合法で売春が行われていた「青線地帯」と称されていた。そこから、際どい商売を営む店が歌舞伎町方面に広がったというのだ。

写真には「珈琲専門店上高地」「ニュー上高地」「珈琲 異人館」「グレコ」など喫茶店のネオンも多く見られる。「新宿区の統計」によると1981(昭和56)年は新宿区内の喫茶店数が1205軒と戦後最大だった。その2年後の1983年の歌舞伎町にも喫茶店は林立している。

喫茶店が消え増えた店は…

しかし現在の「歌舞伎町一番街」入り口付近を歩くと、喫茶店は見当たらず、1983年の写真では目立っていたケンタッキーフライドチキンの店舗もない。今は、ほとんどが焼肉、居酒屋などの飲食店で、熟女キャバクラや風俗案内所なども点在している。1980年代以降、界隈のテナントは変遷してきたようだ。

一方で靖国通り沿いのビルはというと、右側は現在も4棟とも当時のまま。その屋上が、レイク、アコムなど消費者金融の広告なのも変わらない。

そんな、常にギラついている街、新宿歌舞伎町だが、戦前のこの界隈は、商家や住宅、女学校などが並び立つ穏やかな界隈だった。しかし、太平洋戦争の空襲で一帯は全焼。

戦後、焼け野原となったこの地に歌舞伎劇場を建てて、それを中心に復興を遂げていこうと命名された町名が歌舞伎町だった。当時はネットもテレビもミュージカルもない時代。歌舞伎とは、人々が共通して認識する華やかな娯楽で、その煌びやかなイメージを託した町名が付けられたのだ。

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