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蔦屋重三郎が書店開業!その裏で売れまくった本 恋川春町の「金々先生」いったいどんな作品?

東洋経済オンライン / 2025年1月25日 8時10分

小島藩士として、江戸・小石川春日町の藩邸に住んだ春町。「恋川春町」という雅号は「小石川春日町」と、江戸時代中期を代表する浮世絵師・勝川春章の名にちなむと言われています。

留守居役・加判などの要職を歴任した春町ですが、彼の活躍はそれのみにとどまりませんでした。

浮世絵師を志し、町絵師・鳥山石燕(1712〜1788)に浮世絵を学び、安永2年(1773)には挿絵を春町が担当した洒落本(江戸時代の小説の一種。遊里を題材にした短編)『当世風俗通』が刊行されました。

そして、その2年後(1775年)に、先に述べた『金々先生栄花夢』を鱗形屋から出版するのです。

『金々先生栄花夢』(以下『金々先生』と略記)はヒット作となりましたが、現代人で知る人はほとんどいないでしょう。「金八先生なら知っているが」という人が多いかもしれません。

冗談はさておき、『金々先生』は現代において「黄表紙文学の最初の作」「江戸文学史上画期的な作品」「文学史的に大きな意義をもつ」と評されています。

『金々先生』どんな作品?

「金々先生」といっても、寺子屋や藩校の「先生」ではなく「金持ちの粋人」という意味です。ここで、同作の概要をご紹介しましょう。

田舎に住む金村屋金兵衛は、江戸で立身しようと思い立ちます。目黒不動尊(東京都目黒区。瀧泉寺)に立ち寄った金兵衛は、名物の粟餅を注文。粟餅が出来上がるまで、金兵衛はウトウトと居眠りしてしまいました。

寝ている最中に夢を見る金兵衛。なぜか、突然、金持ちの商家の養子・跡取りとなった金兵衛は、湯水のように金銀を使い、放蕩の限りを尽くします。

「金々先生」と呼ばれるようになった金兵衛は、吉原などの遊郭で大散財。それは、家を傾けるほどでした。

金兵衛の養父は、怒り、金兵衛を勘当してしまいます。泣く泣く養家を後にする金兵衛……悲しい悲しいと思っていると、それは夢でした。粟餅が出来上がるまでに見た夢だったのです。

金兵衛は悟ります。「人間一生の楽しみも、粟餅が出来上がる間の夢にすぎない」と。そして、江戸から田舎に帰っていくのでした。これが『金々先生』の概略です。

絵入りの小説である草双紙は元来、子ども向けのものでした。同作品はそれを「大人向けの読み物」にしました。この大人向けに書かれた草双紙が、黄表紙と呼ばれるようになったのです。

また、『金々先生』によって、挿絵(絵画)と文学が合体した「視覚的文学」が成立したとの見解もあります。

さて、『金々先生』のヒットは、作者である春町の才能が大きいことは言うまでもありませんが、出版社の鱗形屋の影響力も無視できません。

今でもそうですが、一般的に書籍は、作者が原稿を書いただけでは、世に出すことはできず、大ヒットすることはありません。販売・宣伝してくれる版元の尽力があるからこそ、本は読者のもとに届きますし、場合によってはヒット作となるのです。

ヒットに気をよくした鱗形屋だったが…

『金々先生』のヒットに気をよくした鱗形屋は、黄表紙の出版を続行していきます。順調な鱗形屋と黄表紙の出版。しかし、何事にも栄枯盛衰は付きものです。繁栄の後には衰退あり。鱗形屋にも危機が訪れるのでした。

(主要参考引用文献一覧)
・松木寛『蔦屋重三郎』(講談社、2002)
・鈴木俊幸『蔦屋重三郎』(平凡社、2024)

濱田 浩一郎:歴史学者、作家、評論家

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