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もし在来線が新幹線と同じ線路幅だったら? 日本の「鉄道の父」最大の後悔 国を揺るがした論争の顛末

乗りものニュース / 2024年6月27日 7時12分

日本の鉄道は多くが、線路幅1067mmの狭軌を採用している。写真はイメージ(大藤碩哉撮影)。

日本の鉄道は多くが線路幅1067mmの狭軌を採用しています。これは鉄道開業時から続くものですが、明治期、1435mmへ改軌する動きがありました。どういう経緯があり、また改軌されていたらどうなっていたでしょうか。

イギリス人技師の提言で狭軌に

 日本の鉄道の多くは狭軌と呼ばれる、線路幅(軌間)1067mmを採用しています。しかし鉄道の黎明期である明治時代、この幅を広げようとする動きがありました。

 そもそも、日本人で初めて体系的に鉄道技術を学んだのは、幕末の長州藩士・井上 勝です。藩の命を受けイギリスに留学した井上は明治維新後に帰国し、1871(明治4)年に明治政府の鉄道部門長である「鉄道頭」に就任します。

 江戸幕府は、鉄道建設をフランスやアメリカの協力で進めようとしていましたが、これは明治政府の成立で頓挫。明治政府は、幕府がアメリカに与えた江戸~横浜間の建設権を拒否しました。アメリカの計画は、経営権と土地をアメリカが持つ外国管轄方式であり、自国主導で鉄道を建設したい明治政府の認められるところではなかったのです。

 これには、明治政府に影響力を持つイギリスの意向もありました。イギリス駐日公使パークスは、政府に「外国の資本や経営に依存しなくとも、日本の資本で鉄道は敷設できる」として、イギリスの技術援助で鉄道を建設できると説いたのです。民間資本による資金集めは上手くいきませんでしたが、そこはイギリスに借金することで鉄道建設が始まります。

 イギリス人建設師長モレルは、明治政府に「線路の幅は?」と尋ねます。当時のイギリスには、植民地などの経済発展が遅れている地域では、本国の1435mm軌間(標準軌。広軌ともいわれる)よりも1067mm軌間の方が経済的という考えがあり、モレルは1067mmがよいと考えていました。

 一方の井上も「標準軌で100マイル(約160km)建設するより、狭軌で130マイル(約209km)建設する方が利益がある」と考えました。「我が国のような山や川が多い地形では、建設費が安い狭軌に利益があり、標準軌は不経済」と考えたのです。

2度の戦争が論を変える

 しかし、狭軌の鉄道が全国的に広がった1894(明治27)年、日清戦争により「輸送力が小さい狭軌は失敗だった」と批判が起こるようになります。井上は1893(明治26)年に鉄道庁長官を辞任しましたが、「鉄道建設自体が反対される中で、建設費が安い狭軌採用はやむを得なかった」「輸送力不足は複線で解決」「三線軌として標準軌の線路を敷設する方法もある」との見解を残しています。

 しかし、その井上は1904(明治37)年に始まった日露戦争の時点では、「日清戦争に勝ち、ロシアに挑むような進歩をすると分かっていたなら標準軌にしていた。余は全く先見の明がなかった」(発言は筆者が現代語に意訳)と見解を変えています。

 国内世論も「世界の五大国に仲間入りする日本が、なぜ狭軌なのか」という論者が増え、政治問題となります。1908(明治41)年に運輸を統括する逓信大臣となった後藤新平は、「下関から青森までの鉄道を標準軌にすれば、韓国や南満州まで一貫輸送ができる」と訴えました。

 後藤は翌年、鉄道院に対し、東京~下関間で狭軌を強化した場合と、標準軌の鉄道を建設した場合の建設費と営業費の調査を命じます。結果、「標準軌へ改軌する方が有利」という報告を受け、改軌期間は1911~1923年度、改築費は2億3000万円との方針で予算案を作りました。

 この時期の1円は現代の4000円程度の価値があるため、換算すると9200億円。1年あたり707億円程度です。ただし、1905(明治38)年の国家予算における歳入総額が3億433万円という時代ですから、2億3000万円(1年に1769万円)は巨大な支出であったことは間違いありません。

 こうして進み始めた改軌計画でしたが、1911(明治44)年に第二代鉄道院総裁となった立憲政友会の原 敬は、改軌に否定的でした。「改軌するならその予算で全国に鉄道を建設しろ」という考えです。しかし3年後に政権交代が起こり、寺内内閣で後藤新平が鉄道院総裁に就任すると、鉄道院工作局長の島 安次郎は、「改軌を三線軌条として、後に狭軌の線路を取り外す方法なら、列車の運行は止まらず、予算も6000万円で済む」とします。

もし米騒動がなかったら…?

 1917(大正6)年に行われた改軌実験が成功したこともあり、鉄道院は「予算6447万円、4年間で6600kmを改軌できる」と方針を示しましたが、米騒動で寺内内閣が総辞職し、原敬が総理になったことで、とうとう「改軌不要」の方針が決められたのでした。

 その後、改軌ではありませんが、1939(昭和14)年からは東京~下関間に標準軌高速新線を建設する弾丸列車計画が始まり、太平洋戦争後に一部が東海道新幹線となりました。

 もし米騒動がなく、1923(大正12)年までに改軌が行われていたらどうなっていたでしょうか。明治~大正時代の蒸気機関車では軌間を広げることでボイラーが大きくなり、出力増大が可能でしたが、時代が進むに従い、この利点は少なくなったでしょう。

 当時、改軌は高速化に有利という見解もありましたが、井上勝の見解通り、山や川が多い地形である日本では脆弱な地盤も含めて、高速化や重量貨物列車の運行に不向きです。結局、踏切を廃した高速新線(=新幹線)を作らなければ、標準軌でも高速化はできず、車両限界は大正時代ですでに欧州並みでしたから、車両の大きさも大して変わらなかったと考えられます。

 ただし、標準軌の方が建設費がかかるため、赤字ローカル線の建設は抑制され、国鉄の財政破綻が先延ばしになったかもしれません。また、都市部は新幹線建設が不要となるため、建設費が安くなることで、高速新線の建設が史実より多く行われたと思われます。

 とはいえ、都市部の線路容量が在来線と新幹線で圧迫され、新幹線は都市部で相当のスピードダウンを強いられたでしょうし、車両は在来線並みの大きさに留まり、編成も長くできなかったでしょう。新幹線にも貨物列車が走り、高速化の妨げになった可能性もあります。筆者(安藤昌季:乗りものライター)は新幹線と在来線が棲み分けている現状の方が、トータルでの利便性が高かったように思う次第です。

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