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旧日本陸軍「隼」 零戦の方がすごかったは本当か? ぶっちぎりの加速 連合軍も終戦まで警戒

乗りものニュース / 2024年6月21日 16時12分

旧日本陸軍の一式戦闘機「隼」(画像:サンディエゴ航空宇宙博物館)。

旧日本陸軍の「隼」は、旧海軍の零戦とよく比較されます。火力、速度、航続力で零戦が上であるため「陸軍が零戦を採用していれば」とまでいわれますが、大戦後期まで連合軍戦闘機と互角に戦えた名戦闘機でもあります。

当初は不採用になりかけた

 旧日本陸軍の一式戦闘機「隼」。旧日本海軍の零式艦上戦闘機(零戦)に次ぐ、日本で2番目の多さとなる5751機が生産されました。運動性能が高く、航続距離が長く、機体規模も近い「隼」と零戦は、エンジンも同系統でよく比較される存在でもあります。

 実際「隼」を開発した中島飛行機と、零戦を開発した三菱航空機は、一世代前の試作機で競った関係性です。後の陸軍九七式戦闘機となった中島キ27と、海軍九六式艦上戦闘機の陸軍版である三菱キ33は実力伯仲で、両者の差はわずかでした。陸海軍パイロットが両者を乗り比べ、海軍パイロットは陸軍九七式戦闘機を評価したと伝えられています。

 陸軍航空本部による「隼」(開発時は「キ43」)の試作発注は1937(昭和12)年12月。最高速度500km/h以上、行動半径800km/h(航続距離2400km程度)、引込脚装備が求められました。九七式戦闘機の航続距離は627kmだったので、大きな飛躍です。

 この時期は欧州でドイツのBf109など、低翼単翼引込脚の高速戦闘機が出現し始めており、複翼機からは脱却したものの、固定脚の九七式戦闘機は登場時点で時代遅れになりかかっていたのです。

 陸軍は「隼」に、九七式戦闘機と同等以上の運動性能を要求します。エンジン出力を上げ高速にすれば運動性能は低下しますが、高速化と武装強化、防弾装備を求めたのです。試作機は1938(昭和13)年12月に初飛行したものの、制式採用は見送られ、再設計に追い込まれます。中島飛行機は1939(昭和14)年から1940(昭和15)年にかけ試作機、増加試作機を製作しつつ、エンジン換装を進めました。

 流れが変わったのは1940年8月。南方資源地帯を攻撃するために長距離戦闘機が必要ということで、「隼」に脚光が当たったのです。この際に機関砲が7.7mmから12.7mmに強化され、さらに行動半径1000km達成のために、落下式燃料タンクの装備が行われました。蝶型戦闘フラップ装備により、運動性能向上も図られました。

「隼」vs零戦 スペックのほどは

 この時期、海軍の零戦は実戦デビュー直前で、航続力の長いキ61(後の三式戦闘機)の開発も進められていたことから、陸軍は零戦やキ61の採用も検討したうえで、「隼」の改修案を採用したようです。実際「隼」が中島飛行機の単独発注ではなく競争試作なら、三菱は零戦の陸軍版を出してきたでしょうから、危うかったかもしれません。

 制式採用された一式戦闘機「隼」1型は、零戦11型と似通った性能を持っていました。同じ条件で比較すると、以下の通りです。

●隼1型
最高速度:494km/h(高度5000m。ただし海軍の良質燃料だと500km/h以上)
上昇力:5分13秒(5000mまで)
翼面荷重:93.1kg/平方メートル
馬力荷重:2.11
急降下制限速度:550km/h
航続距離:3000km(増槽あり)
武装:7.7mm機銃2門

●零戦11型
最高速度:509km/h(高度5000m。機体強度強化後で533km/h)
上昇力:5分56秒(5000mまで)
翼面荷重:107.9kg/平方メートル
馬力荷重:2.31
急降下制限速度:630km/h
航続距離:3350km(増槽あり)
武装:7.7mm機銃2門、20mm機銃2門

 武装、速度、急降下制限速度、航続距離では零戦が勝り、上昇力、運動性(翼面荷重:数字が小さいほど優れる)、加速性能(馬力荷重:数字が小さいほど優れる)と防弾装備は「隼」が勝りました。両者は非公式に手合わせしていますが、そこでは零戦がやや優勢だったようです。

「隼」は当初、機体構造が脆弱で、空中分解したこともありましたが、強化後は操縦性・安定性が抜群でした。太平洋戦争開戦後、1942(昭和17)年3月までの期間で「隼」は連合軍の航空機61機を撃墜し、喪失被害は16機のみでした(以下、日米の記録を照らし合わせての数字)。

 その後「隼」には改良が加えられ、2型の後期型では最高速度548km/h、上昇力4分48秒(5000mまで)、炸裂弾の採用で威力を増した12.7mm機関砲2門を搭載し、急降下制限速度は600km/hに強化されました。同時期の零戦にはない防弾装備も、対12.7mm弾と強化されています。「隼」は「空の狙撃兵」といわれた九七式戦闘機を上回る射撃精度と、低空ならエンジン出力が2倍近い連合軍戦闘機でもぶっちぎる加速力を有しており、連合軍の脅威であり続けました。

戦後も海外で運用された

 南太平洋のラバウルでは、アメリカ軍の大型爆撃機B-17Fを12.7mm機関砲で撃墜し、零戦と遜色ない性能を見せます。1943(昭和18)年7月から1944(昭和19)年7月のビルマ航空戦では、「隼」は連合軍機を計135機撃墜、損失は83機と優勢に戦いました。撃墜機には、連合軍最強ともいわれたP-51戦闘機も含まれます。

 ビルマなどの東南アジアでは、「隼」の運用は終戦まで続きます。1944年8月から終戦までを見ても、「隼」は敵機63機を撃墜、損害は61機とほぼ互角でした。

 零戦より強力な旧海軍の「紫電改」でさえ連合軍機に押されている時期に、これだけの戦果を挙げた「隼」を見るに、兵器はカタログスぺックではないと感じさせられます。「隼」はさらに改良された3型も登場し、最高速度は560km/hに達しました。連合軍は最高速度を576km/hと評価しており、落下タンク懸吊架を装備した状態で560km/hだったとも考えられています。

 実際、ノモンハン事件から終戦まで戦った陸軍トップエースの上坊大尉は、「連合軍最強のP-51と1対1で戦うなら、四式戦闘機『疾風』ではなく『隼』3型を選ぶ。負けないから」と述べています。

 零戦が武装強化などで持ち味の運動性を低下させる中、「隼」は対戦闘機戦において零戦以上の運動性能と抜群の加速力という武器がありましたから、連合軍からすれば零戦以上の脅威だったのかもしれません。連合軍は「隼」と零戦について、急降下すれば逃げられるという対処方法を示していますが、「隼」は低空での加速力が抜群だから警戒するよう、対零戦にはない注意点を付け加えています。

 なお太平洋戦争終結後、海外にあった「隼」は、フランス、インドネシア、中国、北朝鮮、インドネシアに接収され、1947(昭和22)年7月からのインドネシア独立戦争では実戦投入されています。

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