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京成電鉄=最初は「手で押していた」!? 意外な“最古の路線”に残る「人車」の面影 今もある!

乗りものニュース / 2024年6月22日 15時12分

京成金町駅で発車を待つ3500形電車(咲村珠樹撮影)。

京成金町線はたった2.5kmの長さしかなく、葛飾区内で完結しているローカル線ですが、実は京成電鉄で最も古い路線です。しかも本線などで電車が走り出す以前に、手押し車で旅客を運んでいたそうです。

「ものども集え!」縁日こそ決戦日

 東京都葛飾区内の京成高砂駅と京成金町駅を結ぶ京成電鉄の金町線。他路線に乗り入れることなく、単線の線路を4両編成のワンマン電車が往復するわずか2.5kmの路線ですが、実は京成最古の営業路線でもあります。そのはじまりは「人車」によるものでした。

 京成金町線の前身になったのは、金町駅前と柴又帝釈天(経栄山題経寺)の門前を結んでいた「帝釈人車軌道」です。映画『男はつらいよ』で全国的に知られるようになった柴又帝釈天は江戸時代から信仰を集めていましたが、1897(明治30)年の日本鉄道土浦線(現在のJR常磐線)金町駅開業を受け、参拝者の便を図るために駅と門前とを結ぶ新しい道(現在の柴又街道)とともに鉄道敷設が計画され、1899(明治32)年12月に開業しています。

 耳慣れない「人車」という言葉ですが、トロッコに似た小さな客車を後ろから人が押して進む鉄道のことです。帝釈人車軌道では6人乗りと10人乗りの車両を保有し、線路はレール幅(軌間)610mmの複線で、両端は折り返しの際にポイントを必要としないよう、グルリと周回して往復が可能なループ線になっていました。

 普段は利用客が100人にも満たないほど少なく、車両を押す「押夫」は4人で事足りていたそうですが、60日ごとに訪れる柴又帝釈天の縁日(庚申の日)は参拝客が激増し、臨時に120人前後の押夫を採用して1万人を超す利用客をさばいていたのだとか。年間6日程度しかない庚申の縁日だけで、年間の旅客収入の約6割を稼いでいたといいますから、その営業実態が推測できます。

今でも見られる「在りし日」の風景

 そのような営業形態の帝釈人車軌道でしたが、1909(明治42)年に創立した京成電気軌道(戦後に京成電鉄へ改称)が、東京と成田山を結ぶ路線(現在の京成本線)とともに、途中の曲金(現在の京成高砂)駅から柴又を経由し金町駅に至る路線を計画したことで、状況に変化が訪れます。

 経営基盤や輸送力に問題を抱える人車では先の見通しが立たないため、保有する金町~柴又間の軌道敷設特許を京成に譲渡(売却)する契約を1912(明治45/大正元)年に締結。当時の鉄道を管轄する内務省も譲受を許可したことで京成の一路線になりました。

 京成は同年11月に押上~曲金~伊予田(現在の江戸川)と、曲金~柴又の区間を開業し電車を走らせますが、それまでの約半年間は、帝釈人車軌道から引き継いだ金町~柴又の人車が唯一の営業路線だったのです。この区間は電車への変更許可を受けたうえで電車用の線路を並行して敷設することとなり、翌1913(大正2)年10月に完成して人車軌道は14年弱の歴史を閉じました。

 ちなみに、柴又帝釈天は建物に施された木彫が有名ですが、本堂である帝釈堂と本殿、大客殿を結ぶ渡り廊下の欄間彫刻には明治30年代の帝釈人車軌道をモチーフにしたものが残っており、そこからも人車が名物であったことがわかります。

 また、柴又駅下りホーム(金町行き)にある古レール製の柱を見ると、人車で使われたような細く小さいレールが支柱の一部として屋根の梁を支えているのを確認できます。帝釈人車軌道のものだと断定はできませんが、こんなレールの上をトロッコのような人車が走っていたのだと想像するのも面白いでしょう。

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