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いまも重宝される“旧日本戦艦の残骸”とは 戦時中に爆沈→わざわざ引き揚げられた理由

乗りものニュース / 2024年8月14日 16時12分

戦艦「陸奥」(画像:パブリックドメイン)。

終戦時、日本海軍の戦艦は「長門」を残して全ての艦が失われていましたが、その1隻である「陸奥」は戦後、海の中にいながら、意外な活躍の場を得ることになりました。

戦艦「陸奥」戦後に重用されたワケ

 2024年8月15日、日本は79回目の終戦の日を迎えました。日本がアメリカやイギリスなどの連合国に対して無条件降伏をしたのは1945年のことですが、そのとき我が国には軍艦と呼べるものはほとんど残っておらず、戦艦については「長門」以外、全ての艦が沈没またはほぼ沈没扱いである大破着底の状態でした。

 このうち、日本の港や浅い海で沈んだ戦艦は引き揚げられ、解体されたのちに屑鉄として戦後復興の礎に転用されましたが、その引き揚げられた戦艦のなかでも長門型戦艦2番艦「陸奥」に関しては、他艦とは少し違う形で日本に貢献しています。

 そもそも「陸奥」は、戦時中に沈んではいますが戦闘で沈没した訳ではありません。太平洋戦争後期の1943年6月8日、山口県岩国市柱島沖で突如爆発し、転覆したのです。この事故は厳重な情報統制のもとに置かれたため、当時の国民にはほとんど知られていませんでしたが、乗員1474名のうち艦長以下1121名が死亡するという大惨事でした。

 そのため、「陸奥」は太平洋戦争に参加した日本戦艦のなかで、事故で失われた唯一の艦となります。

 ただ、それがかえって「陸奥」に重要な使命を与えたのです。同艦は大戦後、数回に渡りサルベージを受けますが、なかでも1970年に行われたものが最も大規模で、そのとき引き上げられた船体の鋼鉄が重要な役割を果たします。

放射性物質の影響を受けていない鉄を“産出”

 
「陸奥」のトレードマークである、40cm砲は複数が引き揚げられ、「陸奥」の生まれ故郷である神奈川県横須賀市のヴェルニー公園や長野県東筑摩郡の聖博物館、広島県の呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)などに展示されるようになりましたが、主砲とともに引き揚げられた船体などの鉄は、展示品ではなく違う形で再利用されています。それは、放射線測定装置の遮蔽材(しゃへい材)としてです。
 
 実は、史上初めて核実験が行われた1945年7月16日以降に作られた鉄には、空気中に拡散された放射性同位元素のコバルト60が含まれているため、微量の放射線を検出する機器の製造には向かない素材となっていました。

 逆に言うと、それ以前に造られた鉄には、コバルト60が含まれていないということ。そこで、戦時中などに沈んだ艦艇が大きな価値を持つようになったのです。しかも戦艦なら防御力を高めるために、かなり厚みのある鋼鉄が用いられています。その厚みが、遮蔽材で使うのに適しており、結果「貴重な鉄素材」がまとまった量で手に入るとして脚光を集めるに至ったといえるでしょう。

 このときサルベージされた「陸奥」の鉄は通称「むつ鉄」と呼ばれ、日本全国の大学、研究機関、医療機関などに売却され、内部被曝を調べる「全身測定装置(ホールボディーカウンター)」やγ(ガンマ)線測定装置などの素材として使われました。

 実は21世紀に入っても「むつ鉄」は活躍しています。2011年の東日本大震災により発生した福島第1原発事故後の復興作業では、現地で採取した土や水の放射線量を測定するために金沢大学にあった測定器が活躍しましたが、これはまさに「陸奥」から回収した鉄で作られています。

 このように、戦艦としての実績こそ姉妹艦の「長門」やほかの戦艦と比べると芳しくなかったものの、「陸奥」は戦後に大きな働きをしたといえるでしょう。

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