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旧海軍の空母「天城」軍艦としては実績なし! でも国土復興には役立った? 敗戦後の意外な転用先

乗りものニュース / 2024年8月17日 17時12分

爆撃を受け横転した空母「天城」(画像:アメリカ海軍)。

終戦後、広島の呉を視察したアメリカ海軍が撮った旧海軍艦艇の映像があります。その中でも目立つ艦艇のひとつが、海面で横倒しになった空母「天城」です。戦中は一度も使われませんでしたが、戦後は別の方法で役立ちました。

戦後直後の映像に映る悲運の空母

 1945年8月15日の終戦後、広島の呉軍港を撮ったアメリカ海軍のカラーフィルム映像に、大破着底して放置された旧海軍の大型艦が収められています。旧日本海軍の敗北を実感させるように、半身を沈める艦の名前は「天城」。建造されながらも一度も海戦に出ず、戦後の復員船としても使われることなく終わった、不運の空母です。

「天城」は太平洋戦争開戦直前の1941年11月に発令された戦時艦船急速建造計画によって建造された雲龍(雲竜)型空母の2番艦です。

 同艦は1943年10月15日に進水し、1944年8月10日に竣工しますが、当時、日本の劣勢は決定的となっており、海軍の空母艦載機を充実させる余裕はありませんでした。

 同空母が所属先になるはずだった第601海軍航空隊は、1944年10月に起きた台湾沖航空戦に駆り出されて消耗、続いてフィリピンの戦いに投入されたため、雲龍には載せるべき飛行機がない状況であり、空母としての運用をしたくてもできない艦艇となっていました。

 その後も出撃機会のないまま、1945年3月19日の呉軍港空襲で損傷すると、7月24日と7月28日の空襲では爆弾複数発と至近弾複数発を受けて大破し、三ツ子島海岸で冒頭に述べたような転覆状態で晒されることになったのです。

 戦後は浅瀬に沈んだため、浮上させて解体されることになりますが、ほぼ船体の形を残して沈んでいたことで、再度活躍の場が用意されることになります。それは、船底部分を活用してのポンツーン(浮桟橋)に転用というものでした。

実は今も残る「天城」も

「天城」の船底は1947年8日に北海道の函館港に曳航され、終戦直後に青函連絡船や曳船の修理施設がなく困っていた運輸省鉄道総局の五稜郭工機部に引き渡されます。ここで、浮桟橋兼修理プラットフォームとして活用されました。この浮桟橋としての使用は1年後の1946年には打ち切られたため、短期間で艦の全ての部分が解体されることになりましたが、日本の復興には一時的ながら貢献したともいえなくもありません。

 ただ、軍艦として活躍できないまま他用途に転用されるというのは、なにも同艦に限ったことでもないようです。前出の空母「天城」は、その名を引き継いだ軍艦としては、じつは三代目で、先代となる二代目「天城」も巡洋戦艦として計画後、1921年のワシントン海軍軍縮条約の締結によって建造が中止。その後、空母に設計変更されましたが、完成前の1923年9月に起きた関東大震災で損傷し、破棄されるという不運に見舞われています。そして、解体後にやはり船底が、横須賀軍港内の浮桟橋として使用されています。

 浮桟橋化した、二代目「天城」は、同艦の代わりに空母化された空母「加賀」が建造される際に使用されたほか、複数の艦艇の建造に関わっています。2024年現在でも完全撤去はされておらず、ジャパン マリンユナイテッド横浜事業所磯子工場にその名残を見ることができます。

「天城」という名を持つ艦は、2隻続けて軍艦としてではなく、浮桟橋として生まれ変わるという数奇な運命をたどっていることから、妙な巡り合わせを持っているといえるのかもしれません。

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