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戦艦「長門」を捕鯨母船に!? 代わりに白羽の矢が立った知られざる武勲艦たち「飢餓状態の日本を救え!」

乗りものニュース / 2024年9月13日 6時12分

終戦直後の1945年9月9日、横須賀沖に留め置かれた戦艦「長門」(画像:アメリカ海軍)。

9月4日は「くじらの日」です。大戦後、食料事情のよくなかった日本で貴重なたんぱく源として重用されたのがクジラでした。ただ、戦争によって日本は捕鯨船にも事欠く有様。そこで白羽の矢が立ったのが3隻の軍用輸送艦でした。

商船転用の輸送船が次々沈没「船が足らない!?」

 太平洋戦争に負けた直後の日本は、戦禍によって国土は荒廃、加えて重要な働き手の男たちはまだ復員しきっていなかったため、国内の食糧生産もままなりませんでした。

 そのような厳しい食糧事情の改善を図るべく、お腹を空かせた日本人のために捕鯨母船として「出漁」したのが、太平洋戦争後期に大量生産された「第一号型輸送艦」の残存艦たちだったのです。

 なぜ数ある残存船舶の中から「第一号型輸送艦」が選ばれたのか、そこには同クラスならではの特殊な船体形状が関係していました。

 1941年12月に太平洋戦争に突入した日本は、真珠湾攻撃やマレー半島、フィリピン、蘭印の攻略など第一段作戦を順調に実施。続く第二段作戦ではニューギニアやソロモン方面の攻略を試みましたが、戦いの様相は底なしの消耗戦となり、日本は各地で制空権や制海権を失ってしまいました。

 しかしこのような戦況下でも、最前線には補給を行わなければなりません。ただ、民間船がベースの一般的な輸送船では鈍足で防御力にも欠けるため、敵の航空機や潜水艦などの攻撃を受けやすく、戦争が激しさを増すにつれその多くが撃沈されてしまいます。

 そこで日本海軍は、高速で相応の兵装も備えた駆逐艦や、海中に潜って敵の目をごまかせる潜水艦を使って補給物資を運びました。前者は夜間に高速で航行するため「ネズミ輸送」、後者は敵の目を盗んで潜航して行われるため「モグラ輸送」とそれぞれ呼ばれましたが、本来、駆逐艦や潜水艦は戦闘艦であるため物資の搭載量は少ないうえ、肝心の戦闘ではなく輸送任務中でも敵に見つかるケースが続出。次々撃沈されてしまい、貴重な戦力をいたずらに消耗する結果となってしまいました。

快足かつ武装も十分、上陸用舟艇の揚降もバッチリ!

 そこで対策として、一般的な輸送船よりも速く小回りが利き、相応の兵装を備えた小型の軍用輸送船が計画されます。この小型の高速輸送船は、いわゆる輸送船というよりも、物資を多く搭載できるようにした、速力がやや遅く武装が少なめの駆逐艦のような艦型でした。

 自衛用として高角砲(いわゆる高射砲)、対空機銃、爆雷、レーダー、ソナーやハイドロフォンといった音波探知機など、軍艦としても通用する装備を搭載。積荷を運びながら自艦を守るだけでなく、輸送船団の護衛もおこなえるように設計されていました。

 そのうえ、沖合から岸まで補給物資を運ぶ手段として「大発」と呼ばれる上陸用舟艇を船尾に搭載できました。しかも、これを速やかに発進させるため、艦尾にはスリップウェイ(傾斜面)が設けられていたのです。

 さらにこのスリップウェイを利用すれば、大発の代わりに水陸両用戦車(各種の特型内火艇)や甲標的(いわゆる小型潜水艦)、回天(特攻用の人間魚雷)を発進させることも可能でした。また機雷の敷設まで行えたため、輸送任務に加えて、戦闘任務に投入することもできました。

 何にでも使える汎用艦として建造されたこの輸送艦は、「第一号型輸送艦」と命名され1944年中頃から竣工が始まります。ただ、日本海軍では46隻の建造を予定していましたが、21隻が完成した時点で終戦を迎えました。

 こうして生まれた第一号から第二十一号輸送艦ですが、使い勝手がよかったため酷使されて16隻が戦没。生き残った艦も復員業務に従事することになったのです。

船体形状が捕鯨母船にうってつけ!

 一方、敗戦直後の日本に目を転じると、国内は復員者で人口が増える一方、戦禍や冷害による農作物の不作や魚介類の不漁により、食糧不足に見舞われていました。食糧増産の一環として、日本沿岸での捕鯨は行われていましたが、それを戦前のように遠洋でも実施してはどうかということになり、日本を占領していたGHQ(連合国軍総司令部)は、西大洋漁業統制(現・マルハニチロ)、極洋捕鯨(現・極洋)、日本水産(現・ニッスイ)の3社にその許可を出します。

 とはいえ、遠洋での捕鯨となると相応のサイズの船でないと対応できません。特に漁獲した鯨を解体・冷蔵保管する設備を有する捕鯨母船に転用可能な船は、数が限られていました。

 そこで利用可能な船舶の借用を、第二復員省(前・海軍省)に求めます。すると、第1候補として示されたのが戦艦「長門」でした。その理由は、損傷が軽微だったこと。ただ、それ以外にも、民間に貸し出せば連合国に接収されずに済み、敗戦処理のあとに「長門」を日本の手元に残せるかも知れないという考えもあったのではと推察されます。

 しかし捕鯨業者側としては、「長門」の構造はあまりにも捕鯨母船には不向きでした。そこで、白羽の矢が立ったのが第一号型輸送艦の残存艦でした。このクラスは先に述べたように、船尾には上陸用舟艇や水陸両用戦車などを海面へと降ろすためのスリップウェイが設けられており、この構造は鯨を甲板上へと引き上げ解体するにはうってつけでした。そこで、船内に冷蔵庫と鯨油搾油のための機械を増設すれば捕鯨母船に転用可能と考えられたのです。

 改修されたのは、第九、第十六、第十九号輸送艦の3隻で、1946年の第1次捕鯨以降、1948年の第3次捕鯨まで小笠原近海へと出漁。シロナガスクジラ、ナガスクジラ、ザトウクジラ、イワシクジラ、マッコウクジラを合計約800頭以上、漁獲しています。

 かつて、物資不足に苦しむ最前線の日本軍将兵への決死の補給任務に携わった第一号型輸送艦。敗戦後は、失意の彼らを祖国に連れ戻す役割だけでなく、お腹を空かせた日本人への「食糧補給」にも力を尽くすなど、戦後も日本のために活動し続けた知られざる「武勲艦」だったといえるでしょう。

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