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まさに発想が「シムシティ」 徳川幕府はなぜ「両国橋」を架けたのか 江戸城防備より架橋を優先した4代目将軍の采配

乗りものニュース / 2025年1月3日 17時42分

両国橋(画像:写真AC)。

東京都心の東の玄関口となるのが、隅田川に架かる「両国橋」です。現在の橋は、単に橋桁を載せただけに見えますが、実は当時の最先端技術を駆使した「ゲルバー橋」となっています。そんな、350年以上におよぶ両国橋の来歴を振り返ります。

当時最先端技術を駆使した「ゲルバー橋」

 東京都心から国道14号を東へ進むと、最初に現れる大きな橋が、時代劇や落語でお馴染みの隅田川に架かる「両国橋」です。

 1932(昭和7)年11月に完成した鋼鉄製橋梁で、全長は164.5m、全幅は24mあります。この橋は一見すると、橋脚に橋桁の板を載せた単なる桁橋に見えますが、実は当時の最先端技術で造られた「ゲルバー橋」(正式には3径間ゲルバー鋼鈑桁橋)です。

「ゲルバー」はドイツ語で、日本語では「片持ち梁」、英語では「カンチレバー」と言います。
 板(橋桁)の一方の端を橋脚や壁で固定し、もう片方の端を出っ張らせる構造で、プールの飛び込み板が典型です。長崎の世界遺産「三菱長崎造船所ジャイアント・カンチレバークレーン」にも、同じ技術が使われています。

 両国橋は橋脚が2基あり、この上に鋼鈑桁を3枚(3径間)載せているように思われます。しかしよく見ると、橋桁の継ぎ目は橋脚の上にはなく、橋脚の間にある橋桁、つまり宙ぶらりんの箇所にあるのです。

 まるで両岸からそれぞれ伸ばした腕の手の平に、1枚の橋桁を載せたような感じで、橋脚は“腕”が疲れないように支えている役目を果たしています。この方式を採用した先輩の橋としては、隅田川を2.5kmほどさかのぼった所に架かる言問(こととい)橋(1928〈昭和3〉年完成)があります。

 両国橋の施工は、石川島造船(現・IHI)と間組(現・安藤ハザマ)が担当しています。

 現在の両国橋は、「震災復興橋梁」のひとつとして架け替えられました。「震災復興橋梁」とは、1923(大正11)年の関東大震災で損壊した橋を政府主導のもと大急ぎで再建したもので、その数は東京を中心に400橋を超えます。

 隅田川の永代橋や吾妻橋、厩橋、言問橋も同じ仲間で、震災前も鋼鉄製でした。しかしいずれも橋桁が木製だったため、焼け落ちてしまいました。

 一方、先代の両国橋は1904(明治37)年完成の3径間曲弦トラス橋で、鋼製の橋桁は歩道部分を除きほぼ無傷だったため、そのまま利用されました。

 しかし、今後交通量の急増を予想してか、“橋梁再建ラッシュ”とタイミングを合わせて架け替えられました。なお、中央径間部分の曲弦トラスの上部構造は、中央区の南高橋に流用され、都内の道路橋としては最古の鉄橋として健在です。

4代目家綱が最終決断した「江戸城防備より市民の生命」

 隅田川の橋の中でもこの両国橋は古株で、初代の木造橋は1659年(1661年との説も)に完成しています。

 架橋のきっかけは、1657年の明暦の大火です。江戸の大半が焼け、死者は10万人にも達したといわれる大災害で、震災や戦災を除く都市火災としては、人類史上最大級ともいわれています。

 寒村だった江戸に入城を果たした徳川家康が1603年、征夷大将軍に就任し、江戸幕府がスタートしていますが、旗揚げからまだ半世紀ほどしか経過しておらず、戦国時代の記憶も依然鮮明に残る時代でした。

 このため、幕府は敵対していた大名が挙兵して江戸に攻めて来ることを警戒しました。とりわけ奥州(東北地方)の猛将・政宗翁を祖とする仙台・伊達藩の動きを注視しました。

 そこで軍事的備えとして、江戸市中のすぐ東側を流れる隅田川(大川)を天然の防衛線として重視し、架ける橋は市中から北へ相当離れた千住の「大橋」1か所以外認めませんでした。

 しかし明暦の大火では、これが災いしてしまいます。隅田川の対岸に渡れる橋がすぐそばにないため、逃げ場を失った多くの江戸市民が焼け死んだり川で溺死したりしたのです。

 これを深刻に受け止めた幕府は、災害時の避難路を確保するため、市街地と隣接する隅田川に2番目の橋を架けることを決意します。

 当初、幕閣(幕府首脳)では、江戸城の防備が手薄になると断固反対の主旧派の声が強力でした。しかし、時の4代将軍・徳川家綱が全幅の信頼を置く重鎮・酒井忠勝の、「江戸城防備よりも江戸市民の生命が大事」との粘り強い説得が勝ったようです。

 橋が完成すると、大橋は現在と同じ「千住大橋」に名前を改め、江戸市中に隣接する2番目の橋に改めて「大橋」を冠しました。

 この頃、隅田川の東部地区(現在の江東・墨田)は、葦(アシ)原が広がるデルタ地帯でしたが、架橋で江戸市中とのアクセスが便利になったことで人口も急増し、都市化が進みます。幕府も移住を推し進め、市中に散在する武家屋敷の多くを半強制的に移設させ、跡地には延焼を食い止める火除地(ひよけち)や広小路を設けて、超過密都市の大江戸の防災都市化を加速させます。

 また、隅田川を境に東は下総国でしたが、急速な都市化を受け、やがて現在の江東・墨田両区の西半分の地域は武蔵国に編入されます。

 大橋は交通の要衝となり、人々が集まることから、橋の両袂は繁華街としてにぎわっていきます。そしていつしか2つの国にまたがる街であることから、「両国」と呼ばれるようになり、大橋もこれにあやかり「両国橋」が通称となっていきます。

 両国橋をきっかけに市域を大幅に拡大した江戸は、やがて世界最大の100万人都市へと発展します。江戸幕府の采配は、まるで有名な都市開発シミュレーションゲーム「シムシティ」のリアル版といえそうです。

 橋はその後、大水などで何度も流され、その都度新たな木橋が架けられ、明治に入ってからも木製のままでした。

 しかし1897(明治30)年の夏、隅田川の川開きを知らせる両国花火を見物しようと民衆が両国橋に押し寄せ、すし詰め状態となります。その結果、木製の欄干は人々の圧力に耐え切れず倒壊し、見物客が次々と川に転落し多数の死傷者を出しました。この悲劇を契機に、1904(明治37)年、前述した先代の鋼鉄製鉄橋が架けられたのです。

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