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陸軍に「潜水艦」配備なぜ!? 旧日本軍が欲した切実な理由 極秘にし過ぎて「トホホな顛末」も

乗りものニュース / 2025年1月21日 17時12分

洋上を航行する三式潜航輸送艇、通称「まるゆ」(画像:パブリックドメイン)。

予算などで常に対立関係にあったといわれる旧日本軍の陸海軍。その代表例のひとつと見なされているのが、陸軍が潜水艦を保有したというもの。ただえは、その誕生の理由はかなり切実でした。

陸軍にとっては海上輸送の安全性は切実

 旧日本軍の陸軍と海軍は仲が悪かったことで有名です。よく「仲が悪すぎて独自の空母や潜水艦まで作った」との逸話がありますが、このうち潜水艦は「まるゆ」と呼ばれ、角川ゲームスが制作した某ブラウザゲームなどで知名度が高まりました。ただ、潜水艦とは呼ばれてはいるものの、同艦の建造の理由は“メンツ”という意地の張り合いではなく、かなり切実なものでした。

 陸軍と海軍は、長らくライバル関係で基本的な戦略すら一致していなかったため、平時ですら予算や人事、内閣でのパワーバランスなどで張り合っていましたが、困ったことになったのが太平洋戦争時です。

 同戦争は太平洋の島々を戦場に行われたため、史上かつてないほど海路での補給確保が重要になりました。なお、経緯は諸説ありますが、1874年の台湾出兵の時代から日本では海上の物資や兵員の輸送はなぜか陸軍の担当でした。

 開戦当初こそ、海軍は陸軍の輸送にも快く護衛の艦艇を派遣してくれました。しかし、戦況が徐々に悪化するとそうはいかなくなり、護衛なしの輸送船団は甚大な被害を受けることになります。

 次第に戦争の主導権をアメリカに奪われ、増える一方の輸送船の損害に陸軍は一計を案じます。なんと、アメリカ軍の軍用機や潜水艦などに発見されないよう、潜水艦を輸送船代わりに使おうと考えたのです。こうして生まれたのが、三式潜航輸送艇、通称「まるゆ」でした。ちなみに、「ゆ」は輸送艇を表わしています。

もちろん海軍に秘密で建造計画を立ち上げる

「まるゆ」は1943年初頭に計画が始まりますが、その情報は極秘扱いとされます。その徹底ぶりは味方である海軍に対しても行われ、設計・建造の一切について海軍に協力を得ず、陸軍単独で進められました。そのため、第一次世界大戦でドイツが海中輸送を想定して開発した潜水艦、SMU-151を参考とされました。

 しかし、国内の造船所は消耗した海軍艦艇の建造だけでなく、損傷を受けた民間の輸送船や商船、漁船などの修理で手一杯であり、陸軍の潜水艦など作る場所はありません。

 仕方なく陸軍は、通常の艦船よりも高度な技術が必要なはずの潜水艦を、民間のボイラー工場などに依頼したのです。

 設計は陸軍の技師、建造は民間のボイラー会社、まったくの素人たちによる潜水艦建造計画は、困難を極めたといいます。しかも、そこまで秘匿したにもかかわらず、陸上兵器では必要のない潜望鏡を発注したのが原因で海軍に計画が露見。最終的に、試作1号挺の潜航試験には、海軍関係者も招いています。

 素人集団が建造した1号艇の潜航試験はトラブルの連続であったとか。トリム(潜水艦の水平バランス)のコントロールが非常に難しく、頭が沈めばお尻が浮き、お尻が沈めば頭が浮く、という状態になり最初は全く潜水できなかったそうです。ただ、最終的には、時間をかけてようやく完全な潜水状態にまで到達しました。

 ただ、それまでの経緯ゆえに、水面下で航行を停止したままの潜水艦を見て、海軍将校たちは「落ちた(沈没した)!?」と騒然になったそう。その一方で、陸軍の技師らは、満面の笑みで「潜水成功」を喜んだといいます。

 なぜ、このような認識のギャップが生まれたのかというと、その要因として「まるゆ」が海軍の常識では考えられない潜航方法を採用していた点が挙げられます。

 通常、潜水艦は航行しながら潜航に移る方式を取るのが当時の常識でした。しかし、陸軍の試作1号挺は停止した状態で潜航し、その後航行に移るというシステムを採っていました。ゆえに、海軍将校が慌てて「沈没、試験停止!」と叫ぶのを、陸軍関係者が「違う、沈没ではない」となだめたという逸話まで残っています。仲の悪い陸軍と海軍ですが、さすがに浮上した「まるゆ」を確認したときは海軍将校たちも胸をなでおろしたといわれています。

味方の民間船に敵と勘違いされ体当たりを受ける

 ある意味、喜劇のような混乱を挟みながらも、なんとか任務遂行は可能であると判断され、「まるゆ」は38隻が建造されました。なお、1隻の乗員は26名でしたが、そのほとんどは、陸軍の軍港である宇品で鍛えられた船乗りではなく、元戦車兵だったといいます。戦車兵は暗くて狭い場所での操縦に耐性があるだろうと思われたからだとか。また、魚雷もなく戦車砲が防御火器として用いられていたため、その点でも都合がよいとされた模様です。

 海軍は当時、約100m近い大型の潜水艦を建造していましたが、この「まるゆ」は半分以下の約41mしかありません。全幅も3.9mしかありませんでした。また潜水航行に必要な最低限の計器もほとんど搭載されておらず、乗員の付け焼刃のような技術でカバーしていました。そのため急速潜航時に安全深度を突破してしまい圧壊しそうになった話なども数多く残されています。

 スピードも遅く、素人のような操艦でのろのろと航行する様子は、敵である米英軍だけでなく、日本海軍や民間船にも不気味な存在にうつったようです。1944年には、海軍の艦から「汝はなにものなるや?」の打電を受けたほか、日本郵船所属の戦標船に体当たり攻撃を受けて損傷するなど珍事もおきました。徹底的に存在を秘匿した影響なのか、それだけ「まるゆ」は陸軍の船として一般には浸透していなかったということになります。

 取り立てていいところもなかった「まるゆ」でしたが、最大の活躍は1944年11月にやってきました。1944年10月頃から行われたレイテ島輸送作戦です。フィリピンのマニラに到着した3隻の「まるゆ」は、レイテ島地上戦に伴う輸送任務を行うことになります。すでに制空権、制海権ともに連合軍に掌握され、海軍の第二水雷戦隊に護衛された第三輸送部隊が全滅するなど、事態は悪化の一途をたどっていました。マニラも攻撃を受け、巡洋艦やスタンバイしていた輸送船団も全滅。そこで、レイテ島で戦い続ける陸軍に物資を届ける役として、「まるゆ」に白羽の矢が立ちます。

 3隻の「まるゆ」は、激しいアメリカ軍の攻撃にさらされ、1隻を失うも何とかレイテ島に到着。米やバッテリーなどを届けました。これは陸軍潜水輸送艇の最初の戦果であり、大本営陸軍部は感涙したとか。しかし、輸送には成功したものの、マニラに戻るとすでにそこは連合軍が占領しており、港湾機能は喪失していました。なんとか「まるゆ」も近くに港に退避しますが、連合軍の爆撃を受け、残った2隻も失われてしまいます。

 その後は、大きな活躍もなく、400隻建造される予定だった「まるゆ」は、最初の38隻だけで終わりました。終戦時に現存していた船体もその多くは日本を占領したアメリカ軍の命令により解体処分となりました。

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