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日本戦車って軽くて弱い!? とらわれ続けた「15tの呪縛」とは アメリカ・ドイツはどうしていたか

乗りものニュース / 2025年2月12日 16時12分

大発(上陸用舟艇)から上陸する戦車第十一連隊の九七式中戦車。大発は便利な船だったが外洋を航海することはできない(月刊PANZER編集部)

重量物である戦車を船舶輸送するのは、今も昔も大変なことです。第二次世界大戦当時は、陸揚げ時の制約から各国15tに収める“呪縛”がありましたが、国力と技術力で打開したのがアメリカでした。一方、日本はどうだったのでしょうか。

日本は兵器も物資も船便が前提

 日本に1台も残っていなかった旧日本陸軍の九七式中戦車改が帰ってきます。NPO法人「防衛技術博物館を創る会」により、アメリカのテキサス州に保管されていた九七式改を里帰りさせるプロジェクトが進行中で、すでに譲渡契約は完了し、輸送費を賄うクラウドファンディングが実施されています。

 ただ、実は戦車を船で運ぶというのは現代でも簡単ではありません。NPO法人ではこの貴重な戦車を無事に日本へ運ぶため、折衝と調整を繰り返しています。こうした動きを見ていると、80年以上前に、戦車を船で運ぼうとしたのは極めて大変だったことがうかがえます。

 戦艦「大和」のような超大型艦すら建造できる国力を備えていた日本ですが、戦車はどうして連合軍に対抗できなかったのでしょうか。そのひとつに、輸送船のデリック(動力巻上機付きクレーン)性能の制約が指摘されています。

 旧日本軍は渡洋外征軍であり、軍隊は船で運ぶことが大前提でした。当時のデリックの揚重能力は一部を除いて3~15tとされており、戦車に限らず多くの装備品がこの制約を受けることになりました。まさしく「15tの呪縛」です。

 重さ15t以内に収めなければならないことから、戦車に大きな主砲は搭載できず、装甲も厚くできなかったと言えるでしょう。当時は、いくら強力な兵器でも船で運べなければ無意味と考えられていました。制約された重量で機動性と火力、そして防御力のバランスをどう取るかは、設計陣から用兵側まで議論百出だったのです。そのようななか、旧日本陸軍の主戦場は中国大陸であり、相手となる中国軍には強力な戦車などなかったことなどから、メインは歩兵直協用で、軽くて速いことが優先されたと言えるでしょう。

アメリカもドイツも15t以上の戦車を揚陸 なぜ?

 冒頭に記した九七式中戦車の重量は15t。当初の陸軍要求仕様では12t程度でした。とはいえ、同じ1937(昭和12)年に制式化されたドイツのIII号戦車は22t、ソ連のBT-7戦車は13.8t、アメリカのM2軽戦車は11.6tであり、当時としては諸外国と比較してもそれほど見劣りするスペックではありませんでした。しかし、日本は進化に取り残されます。

 しかし、ここで疑問がわきます。当時、輸送船のデリックは、どの国のものでも、さほど能力差はありませんでした。開戦時、フィリピンで日本軍を迎撃したアメリカのM3軽戦車も重さ13t。なぜなら、アメリカもこの呪縛を受けていたはずだからです。

 それにもかかわらず1943(昭和18)年11月から、アメリカ軍は重さ30tのM4中戦車を大量に船舶輸送して反攻作戦に投入していきます。ドイツ軍は57tもある「タイガーI」重戦車を、北アフリカ戦線のチュニジアに船舶輸送し、初陣を飾っています。「15tの呪縛」は、日本戦車だけに作用し続けたのでしょうか。

 アメリカ軍では船首部分に大きなランプドアを備え、戦車やトラックが船内から直接上陸できる車両揚陸艦(LST)を大量に建造しました。すなわち、ロールオン/ロールオフ方式(Ro/Ro)です。重い戦車も自走で陸揚げできるようになったことで、この呪縛から解放されました。アメリカは戦争の序盤から物流や輸送能力の重要性を認識しており、兵器だけでなく輸送インフラにもリソースを投じたのです。

 一方ドイツ軍はこの呪縛の埒外でした。「タイガーI」が北アフリカに渡ったのは、あくまでも例外になります。

登場が遅すぎた機動艇

 大陸国だったドイツ軍は渡洋外征軍ではなかったので、デリックの能力など最初から考慮されていませんでした。

 北アフリカに第501重戦車大隊の「タイガーI」を運んだ際は、まずドイツ本国からイタリアのナポリへは鉄道が使われ、Ro/Ro方式のフェリーには直接自走して乗り込み、チュニジアに到着すると、これまた自走で下船しました。このようにデリックは使っていません。穏やかな地中海で比較的短距離だからできた方法です。

 もし、ドイツがイギリス本土上陸作戦(ゼーレーヴェ作戦)を実行していれば、日本と同じような呪縛にとらわれたかもしれませんが、ドイツ軍戦車は広大な太平洋を戦域とする日本軍戦車とは根本的に行動環境が異なります。

 ただし、日本にもこの呪縛を逃れる方法がないわけではありませんでした。第二次世界大戦中に、船首部分が開いて渡し板で直接陸揚げすることができる「機動艇」(SS艇)というものを開発しています。しかし建造開始が1942(昭和17)年と遅く、30隻の建造計画のうち終戦までに完成したのは20隻と、まったく不足していました。

 戦車を載せられる大発という上陸用舟艇もありましたが、外洋航海は無理です。陸軍も重くて強い戦車の必要性は認識していたので、機動艇が大量に建造できていれば、日本戦車にイノベーションが起きていたかもしれません。

 日本が呪縛から解き放たれて重い戦車を造れるようになったのは、敗色濃厚となり船舶輸送の必要がなくなった大戦末期、本土決戦に備えるようになってからだったのは皮肉です。

 敗戦から80年、日本戦車が“輸送の呪縛”に再び挑戦しようとしています。「防衛技術博物館を創る会」が2022年12月にイギリスから里帰りさせた九五式軽戦車は自走できて軽く、標準貨物40フィートコンテナにギリギリ収まる大きさでした。しかし今回の九七式中戦車改はサイズオーバーです。運ぶには軽くて小さいに越したことはないということを実感させられています。

 貴重な九七式改を里帰りさせ、技術遺産として日本でレストアすることは、“日本戦車の呪縛”とはなんだったのかを検証するにも必要なことだと、筆者(月刊PANZER編集部)は考えています。

※誤字を修正しました(2月12日17時50分)

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