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サッカーは「生き甲斐」、世界をも熱狂させた“稀代のファンタジスタ”横浜に始まり横浜に終わった中村俊輔26年間のキャリア

超ワールドサッカー / 2022年11月11日 7時20分

写真:©︎CWS Brains, LTD.

「生き甲斐ですね。全てです。それに尽きると思います」

そう語ったのは日本だけでなく世界も沸かせたファンタジスタ、横浜FCの元日本代表MF中村俊輔。自身の生き甲斐でもあった“サッカー”から、プレーヤーとして身を引くことを決断。今シーズン限りで26年の現役生活に別れを告げることが発表され、10日の引退記者会見で晴々とした表情で語った。

ファンタジスタとして知られ、その左足のキックは多くの者を魅了。日本だけでなく世界でも称賛されるFKの技術は、サッカー史に残る1人として知られている。

その中村だが、常に明るいキャリアではなかった。2002年には背番号10を背負って戦うものと思われた日韓ワールドカップ(W杯)のメンバーから落選。その直後に海外移籍を決め、世界に名を轟かせた。

キャリアを通じて誇れることについて中村は「高校の時に桐光学園の方針もあってサッカーノートを書くようになり、漠然とですけど中期・長期と目標を書いていました」とコメント。部活の方針で常に目標や課題を書き記すサッカーノートだが、高校時代に掲げていた目標を達成し続けた。「その目標をどんどん超えていって、そこまでなろうと意識していたわけではないですが、代表で10番をつけて、ワールドカップに出る。そうやって目標に向かって単純に努力できたことかなと思います」と語り、誇れることを“努力”と語った。

横浜マリノスや日本代表でチームメイトでもあった先輩の川口能活氏も「天才が努力するとこうなるんだ」と語るほど。才能を磨き続けることがここまで多くの人に愛される選手になった要因と言えるだろう。

中村とサッカーの出会いは小学生の時。深園FCに入団したことがキッカケだ。中村は当時を回想し「僕は深園というクラブチームで若林(可夫)先生の下で始めました。小学5年生の時に横浜市の選抜に選ばれまして、それで6年生主体なのに5年で選ばれてしまいました」とコメント。すでに飛び級を果たしていたが、「本当はいけないことなんですが、先生が年齢は関係ないと言って入れてくれた」と、その能力に目をつけ引き上げてくれる大人に出会ったことが全ての始まり。その後プロとしてもプレーを続けた横浜市に対しては「御恩がいっぱいある」と感謝の気持ちしかないという。


そしてサッカー選手を志したのも横浜市。しかも、プロ入り後の本拠地であり、引退した本拠地でもあるニッパツ三ツ沢球技場での出来事だった。「初めて親と行った三ツ沢。今は凄く整備されていますが、スタンドの椅子もコンクリートだけで、初めて日産vs読売、木村和司さんvsラモスさん、カズさんがいて、あれで虜になって、自分もここでやりたいと」と、横浜でサッカー選手になることを決意。そして、努力の末に夢を叶えた。「今も三ツ沢でプレーできて、三ツ沢で終われたので、運が良いです。よかったなと思います」と、多くの思い出がある地に感謝を述べた。

その横浜の地を離れて最初に訪れたのがイタリア。当時はセリエAに所属していたレッジーナに移籍。すでに中田英寿がペルージャ、ローマ、パルマでプレーし、名波浩がヴェネツィアでプレーしていたが、日本人に馴染みのないレッジーナというクラブを選択。当時セリエAに復帰した1年目のシーズンだった。

イタリアへの挑戦についてはターニングポイントだったと語った中村。「イタリアに行く時は、日本を出なきゃと焦るぐらいでした」と当時の心境を明かした。2002年のW杯のメンバーから落選した中村だが、その1年前の2001年3月のフランス代表との親善試合で5-0と大敗。この大敗で危機感を覚え、イタリアへ行くことを望んだという。

「当時は世界最高峰だったセリエAに行くのを焦るぐらいでしたね。本場のサッカーに飛び込んだのは、良かったと思います。扉をようやく開けられたというか。サンドニで日本代表として0-5で負けた(フランス代表戦)、このままじゃ置いていかれるというのに気づきましたし、やっとこの舞台でやれるというので、凄く光が見えたっていう感じですね」

世界に飛び立ち、扉を開いた先には光があったという中村。レッジーナでもその左足は健在。FKはもちろんのこと、多くのゴールを決めると、2005年7月に移籍したセルティックではさらに大きく羽ばたいた。

当時の中村は世界にまだ日本人選手が多く出て行っていない状況を考え、自分を実験台だと語っていたという。その理由は「俺はこういうプレーヤーだというのだけではなく、こういうことしたらどうなのか、敢えて悪い方を通ったり」と、まさに試すことを色々し、リスクを負ったこともあったという。

ただ「結果として自分の良い結果が出なくても、これからの選手、チームメイト、これから指導者としての財産になることはたくさんあるので、悔いはなかった、良かったと思います」と、今振り返っても、様々なチャレンジは当時上手くいかなくても良かったと言えるまでになったようだ。そしてそれは「これから指導者としてというか、伝えていければというのはいっぱいあります」と、後輩たちに伝えていくつもりだという。

世界をも驚かせ、チャンピオンズリーグ(CL)でマンチェスター・ユナイテッド相手に2試合連続でFKを叩き込んだプレーは未だに思い出されるゴール。それ以外にも、見るものにとって数多くの印象に残るゴールを決め続けてきた。

その1つはジュビロ磐田時代のゴール。鹿島アントラーズとのアウェイゲーム(2017年4月22日)で決めたゴールだ。ボックス内で相手がクリアしたボールをバウンドして転がってきた中、左足一閃。ホップする強烈なミドルシュートがゴール上のネットに突き刺さった。

圧巻のゴールだが、この時自分が取った行動は、中村にとって選手初めての思い出だという。

「アントラーズ戦のアウェイでゴールを決めた後に、名波さんのところに行って、みんなで抱き合った時ですね。選手として初めて監督のところに駆け寄りました」

キャリアを通じてゴールを喜んでも、監督のところまで行くことはなかったという。ただ、マリノスを退団する際にすぐに声をかけてくれた日本代表の元10番・名波浩監督には、人を惹きつける魅力があるという。

「名波さんはみんなから求心力もあるし、兄貴的存在で、サッカーを良く知っていますし、ああいう風になります。あの瞬間は新しい自分が出たというか、嬉しかったです」



同じ日本代表で左利き、ゲームを作るプレーが求められた2人は、選手と監督という立場が変わっても、何かでつながっていたのだろう。それだけ会心のゴールであり、喜びを分かち合いたくなるものだった。

今なお、チームの練習に参加し、サッカーを続けている中村。今後は指導者になることは予てから口にしていたが、理想の監督像は作らないようにしているという。

「選手の時はありましたが、それはあまり作らない方が良いのかなと。自分の感覚とか、物差しでやると、逆に伝わらなかったり、良いことがないかもしれないんじゃないかなという感じでもいます」

「演じなければいけない時もあるかもしれないですし、B級(ライセンス)を取るときも、自分は答えをわかっているから教えすぎだと言われて、なるほどなと思いました。そこを促して、気付かせるということも大事だと思います。まだまだ色々なことを勉強しなければいけないので、今のところ作らないようにしています

型にハマった指導をせず、向き合う選手や状況に対応していきたいという考えもあるのだろう。数多くの監督の下でプレーし、様々な世界を経験したからこその決意なのかもしれない。

その中村だが、自身も称された“ファンタジスタ”について、今後期待する選手の名前を挙げた。それは「小野伸二ですね。そこは変わらないです」。北海道コンサドーレ札幌に所属する43歳は、中村も日本代表としても一緒にプレーした仲。そして、“ファンタジスタ”が再び必要になる時代が来ると考えているという。

「今の時代という言い方はあまり好きではないですが、中央はプレッシャーが360度きますが、そのポジションの選手が必要になる時が自分はあると思いますし、そういう人を逆に潰さないようにしていきたいという気持ちがあります」

中村監督が育てる選手から“ファンタジスタ”が生まれてくるのか。自身の経験を伝承し、再び世界でインパクトを残す武器を持った選手、唯一無二の存在であった中村の後継者を生み出してくれることを、今後は期待したい。

取材・文:菅野剛史(超ワールドサッカー編集部)



【動画】初めて監督に抱きつきに行った中村俊輔の衝撃弾丸ミドル



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