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大幅に若返った日本代表。42年前にも大幅な若返りがあった/六川亨の日本サッカーの歩み

超ワールドサッカー / 2023年3月28日 17時0分

写真:

3月のキリンチャレンジカップ2023で招集された25名(前田大然は左ヒザの負傷で途中離脱)のうち、最年長はGKシュミット・ダニエルの31歳、最年少はバングーナガンデ佳史扶と半田陸の21歳で、ウルグアイ戦のスタメンの平均年齢は25.8歳、25名の平均年齢も24.6歳という若さだった。

カタールW杯のメンバーだった40歳のGK川島永嗣と34歳の権田修一、さらにDF陣も長友佑都(36歳)、吉田麻也(34歳)、酒井宏樹(32歳)といったベテランの招集が見送られたため、一気に若返った印象が強い。

代表チームは常に「最強」を求められるが、過去にも日本代表が大幅に若返ったことがある。1980年3月に監督に就任した渡辺正氏(故人)だったが、10月にくも膜下出血で倒れて指揮を執ることができなくなった。そこで日本サッカー協会(JFA)の強化本部長だった川淵三郎氏(初代Jリーグチェアマン)が監督を兼任することになったのだ。

初陣は80年12月に始まるスペインW杯予選だったが、当時の日本にとってW杯は「夢のまた夢」。当面の目標は1984年のロサンゼルス五輪に出場することだった。そこで川淵監督は「25歳以下の選手」という方針を打ち出した。漫画『赤き血のイレブン』のモデルになったFW永井良和氏やGK田口光久氏(故人)、JSL(日本サッカーリーグ)で16シーズン、260試合連続出場という大記録を打ち立てたDF落合弘氏らベテラン勢は代表からの引退を余儀なくされた。

当時のチームで最年少は枚方FCというクラブ育ちで天才少年と呼ばれた佐々木博和(松下)の18歳。彼以外にも読売クラブの都並敏史氏(現ブリオベッカ浦安監督)、戸塚哲也氏、筑波大学の学生だった風間八宏氏(現C大阪スポーツクラブ技術委員長)は19歳という若さ。最年長は前田秀樹氏(東京国際大学監督)の26歳で、24歳の岡田武史氏(元日本代表監督)、22歳で国士舘大学に所属していた山本昌邦氏(現JFAナショナルチームダイレクター)、同じく22歳の原博実氏(現大宮フットボール本部長)も“新生・日本"のメンバーだった。

ところがスペインW杯アジア予選前に行われた日本代表シニアとの壮行試合では、釜本邦茂氏や西野朗氏、藤口光紀氏(現日本フットサルトップリーグ代表理事)らを擁するチームに2-3と競り負けてしまう。そして予選でも、2年前にFIFAに復帰した中国に0-1、マカオには3-0で勝ったものの、準決勝で北朝鮮に延長の末に0-1と敗れて敗退が決まった。

翌81年に川淵監督は14試合の指揮を執り、3勝3分け8敗という成績。敗れた試合では、マレーシアに0-1、タイ・ユース代表に1-2、インドネシアに0-2とアジアでもなかなか勝てない時代だった。川淵監督最後の試合は日韓定期戦で、こちらも0-1で敗れ、直後に開かれた強化本部会で川淵監督の退任と、森孝慈(故人)コーチの監督就任が正式に決まった。

森監督は若手主体のチームに190センチの長身FW松浦敏夫氏(26歳)やDF加藤久氏(25歳)の中堅選手に加えてベテランGKの田口氏を復帰させるなど柔軟な選手起用を見せた。82年11月にインドで開催されたアジア大会では、国外で初めて韓国を2-1と破った(決勝点は岡田氏のロングシュート)。

しかしロス五輪アジア最終予選では、それまで一度も負けたことのないタイに初戦で2-5と大敗。その後もマレーシアに1-2、イラクに1-2、カタールに1-2と連敗して、16年ぶりの五輪出場は夢と消えたのだった。


【文・六川亨】




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