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過去も現在も抱きしめて、誰かと生きていく【岨手由貴子】

ウートピ / 2021年7月28日 20時0分

作中、大関を見舞うために訪れた病室で、「ボク」がおもむろに八朔(はっさく)の皮を剥(む)きだす描写がある。

皮に爪を立てると目の覚めるような果汁のミストが広がり、弱りきった大関が「いい匂いだな」とつぶやく。生命の輝きを呼び起こすその匂いは、大関に生きている実感を喚起させる。八朔の匂いくらい、彼はこの先もずっと味わえるはずだった。だが、そうはならなかった。とても美しく、残酷な瞬間だ。大関が何を思ったのかは分からないが、彼は慈しむように、その生命の塊のような匂いを嗅ぐ。

きっとみんな、誰かの無意識の言葉に、励まされたり傷ついたりしながら生きている。それぞれに生きてきた時間と文脈があるから、誰かのふとした何かに意味を見出し、糧にする。人はそうやって、過去も現在も抱きしめて、誰かと生きて行くのだろう。

「ボク」はそんなつもりで八朔を剥き始めたわけではない。でも、大関には意味のあることだった。

そんなことを感じさせてくれる、素晴らしいシーンだ。

よく降った雨も、物語の最後には上がっている。

最後に大関がラジオに送ったリクエストの真意は、明菜にも芸人にも届かないかもしれない。けれど、大関の「してやった」というドヤ顔は「ボク」の頭には浮かぶ。それは「ボク」と大関が、確かにともに生きていたからだ。

(岨手由貴子/映画監督)

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