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<Wコラム>日本のコリアをゆく~広島・鞆の浦編3

Wow!Korea / 2016年4月24日 0時41分

1719年、9回目の朝鮮通信使に製述官として同行した申維翰(シン・ユハン)は、のちに『海游録』という書物を残している。(写真提供:「ロコレ」編集部)

◆鞆の浦の繁栄

1719年、9回目の朝鮮通信使に製述官として同行した申維翰(シン・ユハン)は、のちに『海游録』という書物を残している。

その翻訳版は、平凡社東洋文庫(姜在彦訳注)に収められていて、それを読むと朝鮮通信使の道中がどんなものであったかが克明にうかがえる。この申維翰も「使館は福禅寺である」と前置きしながら、鞆の浦についてこう記している。

見物の男女は、錦衣を着て、東西に満ちあふれている。そのなかには、商客、倡娥(あそびめ)、富人の茶屋も多く、各州からきた使官が往来し、住舎も繁華にして目に溢れるばかり。これまた赤間関以東の一都会である。海岸は山高く秀でて海に臨み、三面は諸山が相控えて湾をなす。山の根が海に浸っているところは、石を削って堤となし、その平整なること裁断した如くである。松、杉、橘、柚など百果の林が、蒼翠として四方を擁し、それらが水面に倒影す。人みなここにいたると、第一の観なりと主張してゆずらない。

賑やかな町の中で人々はどんな風に朝鮮通信使を迎えたか。申維翰は「見物の男女は、錦衣を着て」と書いている。これは、最上級のもてなしではなかったのか。

遠い異国から来た珍しい使者たちに対し、地元の人たちが敬意を寄せている雰囲気が如実に感じられる。

さらに、「茶屋も多く」や「住舎も繁華にして目に溢れるばかり」という記述に興味を持つ。かつての鞆の浦の隆盛ぶりが大いに偲ばれるからだ。

◆瀬戸内海の潮待ち港

なぜ、鞆の浦は栄えたのか。地元の人に話を聞いた。

かつて、海上建造物の建設に従事していたという60代の男性が、鞆の浦の地理的な特性について詳しく教えてくれた。

「鞆の浦は昔から潮待ち港として栄えました。瀬戸内海のちょうど中間に位置していて、ここで潮の流れが変わるんですよ。なにしろ、干潮と満潮では3m以上も差があって、山口県のほうへ流れる潮と、兵庫県のほうに流れる潮が分かれます。船はここで待機しながら、潮の様子を見きわめるわけです。朝鮮通信使の船がここに宿をとったのも当然でしょう。景色を堪能しながら、いい潮になるのを待つわけですから、なかなか優雅ですよね。多くの船が集まるので町も賑やかになり、昔は遊廓もありました」

こうした話を聞いても、鞆の浦が瀬戸内海の中でも特に重要な場所であったことがよくわかる。

けれど、交通手段が鉄道や車が主になり、鞆の浦の立地条件も必然的に変わらざるをえなくなった。

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