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<Wコラム>日本のコリアをゆく~百済寺跡・鬼室神社編1

Wow!Korea / 2016年4月28日 16時39分

百済王神社の鳥居

■百済王神社に向かう

大阪と京都を結ぶ京阪電車。車窓からの景色もよく、私(康熙奉〔カン・ヒボン〕)が好きな私鉄の一つだ。

その京阪電車の特急に大阪市内の京橋駅から乗って京都方面に向かうと、最初の停車駅が「枚方(ひらかた)市」である。京橋駅から15分ほどの乗車時間だ。

この駅で京阪電車の交野線に乗り換え、南に向かうと一つ目の駅が「宮之阪」。高架の駅舎から小高い丘がいくつも見えている。大阪府の東北端に位置するが、起伏が多い土地なのである。

駅を出てから前の通りを左に向かい、一つ目の信号を右に曲がると、そこから曲がりくねった上り坂が始まる。

坂の上からは、下りを利用してスピードをあげた自転車が次々と走ってくる。警戒心が働いて、のんびり歩いていられない。前方を注視しながら坂をのぼっていくと、5分ほどで左側に石畳の階段が見えてきた。

階段の左側には「史蹟百済寺跡」と書かれた古い石柱が立っている。ゆっくりと階段を上っていく。

静寂の中で、なんとなく時間が止まったかのような錯覚を覚える。感覚がまどろんでくる。やがて百済王神社に出た。

■滅亡した百済の有力者

目の前の鳥居をしばらく見上げたあと、説明板に目を向けた。そこには、次のように神社の由来が書かれてあった。

百済国王の禅広は、新羅・唐連合軍によって祖国が滅亡した際、日本に亡命してきた。やがて朝廷に仕えることとなり、百済王氏という姓を賜り、難波の地に居住した。

陸奥守百済王の敬福(きょうふく)は聖武天皇の東大寺大仏鋳造に際し、陸奥国で産出した金を献上し、その功により河内守に任ぜられた。敬福は中宮の地を賜り、氏寺として百済寺、氏神として百済王神社を造営し、一族ともどもこの地に住みついたと考えられている。

やがて百済王氏一族は、皇室や高級貴族と姻威関係をもち、朝廷内での地位を高めていった。特に桓武天皇は交野ヶ原の地をしばしば訪れ、百済王氏と親交を深めた。

その後、度重なる火災により壮大な伽藍は灰燼に帰し衰退した。やがて奈良興福寺の支配を受け、再興が図られた。

こうした説明を読むと、この地が、滅亡した百済の有力者たちにゆかりがある場所だとわかる。

■堕落した百済国王

百済王神社のとなりには木が生い茂る公園があり、その中央は平らな広場になっている。この公園こそ百済寺があった場所なのである。

かつて百済寺は百済の歴代王を日本で祀る寺院だったのだが、結局は消滅という運命をたどった。

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