1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. 芸能
  4. アジア・韓流

<Wコラム>日本のコリアをゆく~百済寺跡・鬼室神社編3

Wow!Korea / 2016年4月30日 16時2分

百済寺の跡地は公園になっている(写真提供:ロコレ)

百済(ペクチェ)の復興をめざした軍の中で、トップ2の豊璋と福信が内紛を起こした。結局、福信を殺した豊璋はすべての権力を自分のものにしたのだが、軍事的な指導者を失った百済復興軍の痛手は大きかった。そのことが如実に現れたのが、白村江の戦いだった。

■日本の水軍が大敗

豊璋の要請によって、日本の朝廷はさらに2万7千の兵と船400隻を派遣し、百済復興軍を援護した。663年、白村江で新羅・唐の連合軍と百済・日本の連合軍が争った。けれど、日本はまだ海戦に慣れておらず、船400隻も唐の船に比べると小さかった。

しかも、作戦の失敗があり、日本の水軍は大敗。新羅・唐の連合軍の圧倒的な勝利となった。

豊璋はあっさりと逃亡。百済復興軍も総崩れとなり、百済は完全に命脈を絶たれた。豊璋は福信を殺すことによって、自らの命綱も断ち切ってしまったのである。

百済が完全に滅んだあと、多くの遺民が日本を頼って渡ってきた。本国の百済では、義慈(ウィジャ)王の直系の子孫は絶えてしまったが、まだ日本には義慈王の息子である勇がいた。

豊璋が百済へ行ったとき、勇が同行したのかどうかは定かではない。同行して戻ってきたのか、あるいは、そのまま日本に住んでいたのか。いずれにしても、664年の時点で勇は畿内に住んでいた。こうして、百済王の直系の血は、日本に残された。

勇の曾孫の敬福は富を蓄積し、東大寺を建立するときに黄金を寄贈して王朝から称賛された。その功によって中宮と呼ばれる地域を拝領した。それが、今の枚方(ひらかた)市に当たる。

750年頃、敬福は朝廷の許しを得て、先祖を祀る寺として百済寺を建立した。敬福は、この百済寺に歴代の百済王の位牌を丁重に祀って、先祖の霊を慰め続けた。百済寺は、それから約400年間続いたのだが、いつのまにかつぶれてしまった。

■風水にかなった地理

百済寺は、今はもう建物の礎石以外は何も残っていない。その跡地に立ち、丘の上から枚方市の住宅地をながめた。

枚方市は戦前、砲弾の製造工場が多く、日本の砲弾のほぼ半分を製造する軍需産業の町だったという。

戦後は交通の便が良いことから、大阪と京都の間の住宅地として発展した。歴史的な文化財も多いので、大人の遠足にちょうどいい町である。

私は、百済王神社の拝殿を見たあと、帰路についた。よく見ると、京阪電車の線路に平行して天野川が流れていた。川幅は狭いが川岸に道が整備されていて、ランニングをしてる人の姿も見える。

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

複数ページをまたぐ記事です

記事の最終ページでミッション達成してください