1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. 芸能
  4. アジア・韓流

<Wコラム>韓流ファンのための「日韓・近現代史」~朝鮮王朝の滅亡

Wow!Korea / 2016年5月2日 17時28分

以前の朝鮮王朝は中国に気兼ねして自ら皇帝と称することはせず、格が1つ下がる形の「王」を自称していました。

しかし、日清戦争において日本が勝利したことで、清は朝鮮半島で影響力を失い、朝鮮王朝は独立の証として「帝国」を名乗るようになったのです。

■日韓併合への道

20世紀に入ると、日本とロシアの対立が非常に激しくなりました。もはや両国の軍事衝突は避けられない情勢となり、1904年2月に日露戦争が始まりました。朝鮮王朝は中立を宣言したのですが、日本は朝鮮王朝の意向を無視し、軍事力を背景に朝鮮半島の全土を支配下に置きました。

日本は1904年8月に第1次日韓協約を強要。朝鮮王朝は外交に関して日本と事前に協議することを求められました。もちろん、朝鮮王朝が拒めるはずもありません。

1905年9月には、日露講和条約が調印されてロシアは朝鮮半島から完全に追い出されました。すかさず日本は11月に第2次日韓協約(韓国保護条約)を調印。日本は統監府を設置し、朝鮮王朝は外交権を奪われました。もはや亡国が避けられない情勢となったのです。

起死回生を期して、高宗は1907年6月にオランダのハーグで開催された万国平和会議に、日本の干渉に対する不当性を訴える密使を送りました。

しかし、すでに朝鮮王朝が外交権を持たないことで失敗に終わり、高宗は日本の圧力によって7月19日に退位させられました。代わって27代王に就いたのは、高宗の息子の純宗(スンジョン)でした。

7月24日には第3次日韓協約が締結され、日本は朝鮮王朝の内政を掌握し、軍隊を解散させました。そうした政策を積極的に進めたのが韓国統監を務めた伊藤博文でしたが、彼は1909年10月に安重根(アン・ジュングン)によって暗殺されました。

もはやどんな抵抗をしても、日本による朝鮮半島の植民地化は防ぎようがなかったのですが……。

ついにその日が来ました。1910年8月22日、「日韓併合ニ関スル条約」が調印されました。

その条文には「韓国皇帝がすべての統治権を完全かつ永久に日本国皇帝に譲渡する」と書かれています。“完全かつ永久”という表現が、朝鮮半島が軍事力で日本に取り込まれたことを強烈に物語っていました。

この条約は8月29日に公布されましたが、それによって518年続いた朝鮮王朝が滅びました。統監府に代わって朝鮮総督府が置かれ、日本の植民地統治が始まったのです。

文=康熙奉(カンヒボン)

(ロコレ提供)

出典/『宿命の日韓二千年史』(著者/康熙奉〔カン・ヒボン〕

発行/勉誠出版)

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください